東漢時代77 明帝(六) 鐘離意 60年(2)

今回は東漢明帝永平三年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
明帝が北宮の大建築を開始しました。
当時は旱害に襲われていたため(本年は水害もありました)尚書僕射会稽の人鍾離意(鐘離が氏です)が宮闕を訪ねて冠を脱ぎ、上書してこう言いました「昔、成湯が旱に遭った時、六事をもって自責し、『政治に節度がないのか(政不節邪)?民を苦しめているのか(徭役が多すぎるのか。原文「使民疾邪」)?宮室が栄えているのか(宮殿が多すぎるのか。『資治通鑑』の原文は「宮室営邪」ですが、『後漢書第五鍾離宋寒列伝(巻四十一)』では「営」が「栄」になっています。恐らく『資治通鑑』の誤りです)?女謁(妃嬪の要求)が盛んなのか(女謁盛邪)?苞苴(賄賂)が行われているのか(苞苴行邪)?讒夫(讒言の者)が興隆しているのか(讒夫昌邪)?』と言いました。臣が窺い見るに(竊見)、北宮の大作(大建設)によって民が農時を失っています。古から宮室の小狹を苦とすることはなく、ただ民が安寧ではないことを患いました。暫く罷止(中止)して天心に応じるべきです。」
明帝が策詔(詔を書いた策。策は竹簡です)で答えました「湯は六事を引用して咎を一人のものとした(湯引六事,咎在一人)。冠を被って履物を履け。謝る必要はない(其冠履,勿謝)。」
明帝は大匠にも命令を出して諸宮の建築を中止させ、緊急ではない出費を減らしました(減省不急)
更に詔を発して公卿百僚に謝罪しました。
その結果、すぐに大雨が降りました(応時澍雨)
 
但し五年後の永平八年65年)に北宮が完成するので、暫くして建築が再開されたようです。
後漢書・顕宗孝明帝紀』は「この年、北宮および諸官府の建設を始める(起北宮及諸官府)」と書いています。
 
鐘離意が全椒長(県長)劉平を推挙しました。
明帝は詔を発して劉平を招き、議郎に任命します。
 
劉平は全椒県で政治を行っていた時、民に恩恵を与えました。そのため、ある民は貲(財産)を多めに報告して賦税を納め(増貲就賦)、ある民は年を若く報告して徭役に就きました(減年従役)
刺史や太守が劉平の管轄する県を巡行したところ、獄には繫囚(牢に繋がれた囚人)がおらず、人々は自分の居場所があり(人々は安定した生活をしており。原文「人自以得所」)、問うべきことが分からなかったため(問題とすることがなかったため)、ただ詔書を宣布して去りました(不知所問,唯班詔書而去)
 
明帝は性格が褊察(偏狭苛酷)で、好んで耳目によって人の隠し事を暴露し、それを英明なことだと思っていました。
公卿大臣はしばしば詆毀(誹謗、批難)され、近臣や尚書以下の者も巻き込まれて殴打されることがありました(原文「近臣尚書以下至見提曳」。『資治通鑑』胡三省注によると、「提」は物を投げて撃つこと、「曳」は引き込むことです)
以前、ある出来事のために明帝が郎の薬崧(薬が氏、崧が名です)を怒り、杖で殴打しました。
薬崧が逃げて牀下(寝床の下)に入ったため、明帝は更に激怒して速い口調で(疾言)「郎、出て来い!」と言いました。
薬崧が答えました「天子が美しければ諸侯が盛んになります(「天子穆穆,諸侯皇皇」。『礼記』の言葉で、「穆穆」は美しい様子、「皇皇」は盛んな様子です)。人君が自ら郎を打つとは(自起撞郎)聞いたことがありません。」
明帝は薬崧を赦しました。
 
当時、朝廷では悚慄(戦慄恐怖)しない者がなく、(明帝の意向に従って)争って厳(厳格)な態度をとり、誅責から逃れようとしました。
しかし鍾離意だけは敢えて明帝に諫争しました。詔書が下されてもしばしば封をして返し、臣下に過失があったらいつも助けて難を除きます。
ちょうど変異が重なったため、鐘離意が上書しました「陛下は鬼神を敬畏し(敬い畏れ)、黎元(民衆)を憂恤(憂慮して憐れむこと)していますが、天気がまだ和さず、寒暑が節に違えています。咎は群臣が宣化(教化)して職を治めることができず、苛刻を俗にしていることにあります。百官に相親(互いに愛し合うこと)の心がなく、吏民に雍雍(和睦)の志がないため、和気に感逆して(和気を犯して)天災をもたらしています(至於感逆和気以致天災)。百姓は徳によって勝つことはできますが服従させることはできますが)、力によって服すのは困難です。『鹿鳴詩経』の詩が必ず宴楽(酒宴の喜び)に言及するのは、人と神の心が洽(和)した後に、天と気が和すからです。陛下が聖徳を垂れて刑罰を緩くし、時気に順じて陰陽を調和させることを願います。」
 
明帝はその治世において鐘離意の諫言を用いることができませんでしたが、鐘離意の至誠を知っていたため、最後まで敬愛して厚く遇しました。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋八月戊辰(二十五日)、明帝が詔を発し、讖文に従って大楽官(太楽官)を大予楽官(太予楽官)に改名しました(『資治通鑑』には「太予に改名した」とありますが、「太予楽」の誤りです。『後漢書・顕宗孝明帝紀』では「大予楽官」としています)
 
後漢書・顕宗孝明帝紀』の注によると、『尚書璇璣鈐』という書に「漢に帝が出る。徳を広く調和させて楽を作る。名を予という(有帝漢出,徳洽作楽,名予)」と書かれていたため、『尚書璇璣鈐』に従って「太楽」を「太予楽」に改めました。太予楽令は定員一人で秩六百石です。
資治通鑑』胡三省注によると、漢の音楽は四品(四種類)がありました。一は「太予楽」で、郊廟や陵殿(陵墓の配殿)の宴で奏でる音楽です。二は「周頌雅楽」で、辟雍、饗射、六宗、社稷の音楽です。三は「黄門鼓吹」で、天子が群臣を招いて開いた宴で奏でる音楽です。四は「短簫鐃歌」で軍楽です。
太予楽令は「太予楽」を管理する官のようです。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と資治通鑑』からです。
壬申晦(中華書局『白話資治通鑑』は「壬申晦」を恐らく誤りとしています)、日食がありました。
 
明帝が詔を発しました「朕は祖業を奉承(継承)したが善政がないので、日月が迫って蝕み(日月薄蝕)、彗孛が天に現れ、水旱に節(限度)がなく、稼穡(農作物)が成らず、人(民)に宿儲(貯蓄)がなく、下に愁墊(極度の愁苦)が生まれている。たとえ朝から夜まで勤めて考えても(夙夜勤思)、智能が及ばない。
昔、楚荘王は災がなかったのに戒懼(警戒と恐れ)を到らせ(『資治通鑑』胡三省注によると、楚荘王は天地に異変がなかったのに、逆に「天が予を忘れたのではないか(天其忘予歟)」と言って自分を戒めました)、魯哀公は禍が大きかったのに天が譴責を降さなかった(『資治通鑑』胡三省注によると、魯哀公の時代は政治が乱れていましたが、日食がありませんでした。既に天譴を与えても無益な状態だったからです)。今、動変があったのはまだ救いがあるからであろう(儻尚可救)。有司(官員)はその職を勉めて思い(その職に尽力し。原文「勉思厥職」)、そうすることで無徳を匡せ(正せ)。古では卿士が(諫言の)詩を献じ、百工(百官)が箴諫(諫言)した。事を語る者は(諫言する者は)、忌避するところがあってはならない(靡有所諱)。」
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月、明帝が光武廟で蒸祭(冬の祭祀)を行いました。
始めて「文始」「五行」「武徳」の舞を奏でます。
 
後漢書・顕宗孝明帝紀』の注によると、「文始の舞」は本来、帝舜の「韶舞」で、西漢高帝時代に改名されました。
「五行の舞」は「周舞」で、秦始皇帝時代に改名されました。
「武徳の舞」は西漢高帝時代に作られました。
光武帝時代は礼楽がまだ整っておらず、明帝の時代になって初めて祭祀で舞曲が奏でられました。
 
甲子(二十二日)、車駕(明帝)が皇太后に従って章陵県(旧舂陵郷)行幸し、旧(旧家)を観察しました。
 
荊州刺史郭賀の業績が優秀だったため(官有殊政)、明帝は三公が身に着ける黼黻(特殊な模様がある礼服)と冕旒(旒(玉を連ねた飾り)を垂らした礼冠。『資治通鑑』胡三省注によると、東漢の制度では礼冠の前後に青玉で作った旒を垂らしました。三公と諸侯の冠には七旒がありました)を下賜しました。
また、郭賀が管轄の地を巡行する時は襜帷(車の幕)を除くように命じました。百姓にその容服(儀容服飾)を見せて徳があることを明らかにするためです。
 
戊辰(二十六日)、明帝が章陵から還りました。
 
[十一] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
この年、京師と七つの郡国で大水(洪水)がありました(既述しました)
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
莎車王賢が兵威を用いて于、大宛、嬀塞王国に迫り、その地を奪って自国の将に守らせました。
資治通鑑』胡三省注によると、嬀塞国は塞種(塞人)で、嬀水に臨んで生活していたため、それが国名になりました。
 
やがて于人が莎車の将君徳を殺し、大人休莫霸を王に立てました。
莎車王賢は諸国の兵数万を率いてこれを撃ちましたが、休莫霸に大敗し、なんとか危機から脱して逃げ帰ります。
休莫霸は兵を進めて莎車を包囲しましたが、流矢に中って死にました。
 
人は休莫霸の兄の子広徳を王に立てました。
広徳は弟仁を送って莎車王賢を攻めさせます。
広徳の父はこれ以前に莎車に拘留されていたため、莎車王賢は広徳の父を還らせて自分の娘を広徳に嫁がせ、和親しました(翌年再述します)
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代78 明帝(七) 于窴王と莎車 61年