東漢時代80 明帝(九) 宗均 63~64年

今回は東漢明帝永平六年と七年です。
 
東漢明帝永平六年
癸亥 63
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀からです。
春正月、沛王劉輔、楚王劉英、東平王劉蒼、淮陽王劉延、琅邪王劉京、東海王劉政、趙王劉盱(または「劉栩」)、北海王劉興、斉王劉石が来朝しました。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀と『資治通鑑』からです。
二月、王雒山(または「王雄山」)から宝鼎が出土し、廬江太守が明帝に献上しました。
 
夏四月甲子(初七日)、明帝が詔を発しました「昔、禹は九牧の金を収め(九州の長が献上した黄金を受け取り)、百物の形状をかたちどって鼎を鋳造し(鋳鼎以象物)、人々に神姦を知らせ、悪気に逢わないようにさせた(『顕宗孝明帝紀』の注が解説しています。夏王朝の始祖禹は、九州の牧が献上した金で鼎を作り、鬼神百物の形状を描きました。そのおかげで人々は山林川沢に入っても魑魅魍魎に遭わなくなりました)(鼎は)徳に遇って興り、商・周に遷され、周の徳が既に衰えてから、鼎は淪亡(喪失)した。祥瑞が降るのは、それによって有徳に応じるのである(祥瑞之降以応有徳)。今は政化(政治と教化)に僻(邪)が多い。どうして(祥瑞を)ここに到らせることができるだろう(何以致茲)。『易』には『鼎は三公を象徴する(鼎象三公)』とあるが、公卿が職を奉じてその理を得ているということであろうか。
太常は礿祭(夏の祭祀)の日に鼎を廟に配置して器用(用具)に備えよ(祭祀の用具として使え。原文「以備器用」)。三公に帛五十匹を下賜し、九卿と二千石はその半数とする。
先帝は詔書によって人が事を挙げる時に(上奏する時に)『聖』と言うのを禁じた光武帝建武七年31年参照)。しかし最近の章奏は浮詞(虚美の言葉)が頗る多い。今からは、もし過度に虚誉を称す者がいたら、尚書が全て抑えて省みない(受理しない)べきであり(宜抑而不省)、このようにして諂子(迎合する者。阿諛の者)に嘲笑されないことを示す(示不為諂子蚩也)。」
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀と『資治通鑑』からです。
冬十月、明帝が魯を行幸し、東海恭王陵を祀りました。
東海恭王劉彊は明帝の異母兄で、かつては皇太子でした。
 
明帝が沛王劉輔、楚王劉英、済南王劉康、東平王劉蒼、淮陽王劉延、琅邪王劉京、東海王劉政と会見しました。
 
十二月、明帝が引き返して陽城を行幸し、使者を送って中岳(嵩山)を祀りました。
壬午(二十九日)、皇宮に還りました。
東平王劉蒼、琅邪王劉京が車駕に従って京師に入り、皇太后に朝見しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
この年、南単于僮尸逐侯鞮単于が死に、単于(丘浮尤鞮単于の子蘇が立ちました。これを丘除車林鞮単于といいます単于莫は光武帝に帰順した南匈奴呼韓邪単于比の弟です)
しかし数か月後に単于(丘除車林鞮単于が死んだため、単于僮尸逐侯鞮単于の弟長が立ちました。これを湖邪尸逐侯鞮単于といいます。
 
 
 
東漢明帝永平七年
甲子 64
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月癸卯(二十日)、皇太后陰氏(陰麗華)が死にました。
二月庚申(初八日)、光烈皇后を埋葬しました。
 
西漢の諸皇后は死んでから皇帝(夫)諡号をそのまま使いました。例えば恵帝の皇后は「孝恵」張皇后、文帝の皇后は「孝文」竇皇后、景帝の皇后は「孝景」薄皇后といいます。
但し、武帝の衛皇后と宣帝の許皇后だけは不遇によって天寿を全うできなかったため、後に「思后(衛思后)」「恭哀皇后(許恭哀后)」という諡号が贈られました。
今回、陰太后光武帝の皇后)諡号光武帝の「光」の後ろに「烈」の字が加えられました。
その後の皇后の諡号には皇帝の諡号の後ろに「徳」の一字が加えられるようになります。例えば明帝の皇后は「明徳」馬皇后、章帝の皇后は「章徳」竇皇后です。『後漢書皇后紀下』は東漢時代の皇后の諡号について「賢愚優劣において混同一貫しており(混同して違いがなく)、そのため馬氏と竇氏の二后が共に『徳』を称した(複数の皇后が優劣に関係なく「徳」を諡号に使った)」と書いています。
皇后以外では、皇帝の庶母(皇帝の実母で前代皇帝の皇后ではなかった者)に対してや、蕃王が皇統を継承した場合に特別に号を追尊しました。「恭懐(和帝の母。章帝の梁貴人)」や「孝崇桓帝の実母。蠡吾侯翼の媵妾。匽氏)」等です。
初平年間献帝の年号)になってから、蔡邕が始めて鄧太后(和帝の皇后)諡号を正して「和熹」の号を追尊し(これ以前の諡号は「和徳」だったと思われます)、その後の皇后も「安思(安帝の皇后閻氏)」「順烈(順帝の皇后梁氏)」というように諡号改められました(安帝建光元年・121年に再述します)
 
[] 『後漢書顕宗孝明帝紀』からです。
秋八月戊辰、北海王劉興が死にました。
劉興は光武帝の兄劉縯の子です。『後漢書宗室四王三侯列伝(巻十四)』によると、劉興には靖王という諡号が贈られました。
劉興の子劉睦が継ぎました。劉睦の諡号は敬王です。
 
[] 『資治通鑑』からです。
当時は北匈奴がまだ強盛で、しばしば辺境を侵しました。
しかし同時に使者を送って東漢に合市(互市。交易)を求めました。
明帝は北匈奴との交通(交流)によって侵犯が無くなることを期待し、要求に同意しました。
 
後漢書・顕宗孝明帝紀は「この年、北匈奴が使者を派遣して和親を乞うた」と書いており、『後漢書南匈奴列伝(巻八十九)』にも「当時は北匈奴がまだ強盛で、しばしば辺境を侵したため、朝廷がこれを憂いとした。ちょうど北単于が合市を欲し、使者を派遣して和親を求めた。顕宗(明帝)は交通によって寇(侵略)を為さなくなることを期待したので同意した」とあります。
これらを読むと東漢は「交易」と「和親」に同意したように思えますが、『資治通鑑』は「和親」の部分を省略しています。
 
[] 『資治通鑑』からです。
海相宗均を尚書令に任命しました。
 
かつて宗均は九江太守を勤め、五日に一回聴事しました(政務を行いました)。掾・史を全て省き、督郵府を閉ざして督郵を府内から出させなかったため、属県に事が起きず、百姓が業に安んじるようになりました。
資治通鑑』胡三省注によると、郡には五部の督郵がおり、属県を監督しました。督郵を府内から出させなかったのは、督郵の司察が逆に属県を混乱させて多事になると判断したからです。
 
九江は古くから虎暴(虎の猛威。虎の害)が多かったため、常に人を募って檻穽(罠)を設けていました。しかしそれでも多数の人が傷害を受けます。
宗均は記(文書)を属県に下してこう告げました「江淮に猛獣がいるのは、北土に雞(鶏)豚がいるようなものである。今、民の害になっているが、咎は残吏(残酷な官吏)にある。それなのに労勤(勤労、辛苦)して捕を張るのは(網を張るのは。罠を設けるのは)、憂恤の本ではない(民の生活を憂慮して慈しむ根本の方法ではない)。今後、姦貪を退けることに務め、忠善を進めることを思えば、檻穽を全て去って、課制(賦税)を除削(削除)することができる。」
この後、虎の患いがなくなりました(『資治通鑑』は「その後、虎の憂いがなくなった(其後無復虎患)」と簡単に書いていますが、『後漢書第五鍾離宋寒列伝(巻四十一)』には「その後、(宗均の)言が伝わり、虎が東に移って長江を渡った(其後伝言虎相與東游度江)」とあります。宗均の話は、「徳がある政治を行えば虎でも感化させることができて、自然に民の害がなくなる」ということを説いています)
 
明帝は宗均の名声を聞いたので尚書令にして枢機を任せることにしました。
宗均がある人に言いました「国家(皇帝)は文法(法令。ここでは法令文書を扱う官吏(文吏)を指します)・廉吏を好み、彼等がいれば姦を止めるに足りると思っている。しかし文吏は欺謾(欺瞞)が習慣になっており、廉吏の清(清廉)も一己(自分の身)にしかないから、百姓の流亡や盗賊が害を為していることに対して益がない。均(私)は叩頭して争う(諫言する)ことを欲する。すぐに改めることはできなくても、久しくしたら(皇帝が)自らこれを苦とするようになるので、進言するべきだ(あるいは「その時は進言できるようになる」。原文「時未可改也,久将自苦之,乃可言耳」)
しかし宗均は進言する前に司隸校尉に遷されました。
明帝は後にその言葉を聞き、遡って称賛しました(追善之)
 
 
 
次回に続きます。