東漢時代81 明帝(十) 仏教 65年(1)

今回は東漢明帝永平八年です。二回に分けます。
 
東漢明帝永平八年
乙丑 65
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月己卯(初二日)、司徒范遷が死にました。
『顕宗孝明帝紀』の注によると、范遷の字は子閭といいます。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月辛卯(中華書局『白話資治通鑑』は「辛卯」を恐らく誤りとしています)、太尉虞延を司徒に、衛尉趙熹を太尉代理(行太尉事)にしました。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
前年、北匈奴東漢に使者を送ったため、東漢も越騎司馬(『資治通鑑』胡三省注によると、越騎校尉には司馬が一人いました。秩千石です)鄭衆を使者にして北匈奴に派遣しました。
北匈奴単于匈奴光武帝建武二十二年46年に蒲奴単于が立ってから、南北に分裂しました。蒲奴単于は没年が不明なので、明帝時代の単于が蒲奴単于かどうかは分かりません)が鄭衆に拝礼を命じようとしましたが、鄭衆が屈しないため、単于は鄭衆が住む場所を包囲し、外との連絡を閉ざして水も火も与えないようにしました。
しかし鄭衆は刀を抜いて単于に屈しないことを自ら誓いました。
単于は恐れてあきらめ、改めて使者を発し、鄭衆に従って京師を訪ねさせました。
 
以前、大司農耿国が「度遼将軍を置いて五原に駐屯させ、南匈奴の逃亡を防ぐべきです」と言いましたが、朝廷は従いませんでした。
南匈奴の須卜骨都侯等は東漢北匈奴が使者を交流させるようになったと知り、内心で嫌怨(怨恨)して離反を欲しました。そこで秘かに人を送って北匈奴を訪ねさせ、北単于に兵を出して自分を迎え入れるように要求します。
 
鄭衆は塞を出て匈奴に向かう時、異変の発生を疑ったため、南匈奴の動静を観察していました。果たして須卜が派遣した使者を捕えます。
鄭衆が上書しました「改めて大将を置き、二虜の交通を防ぐべきです。」
こうして東漢になってから始めて度遼営が置かれ、中郎将呉棠(または「呉常」)が度遼将軍の政務を行うことになりました(行度遼将軍事)。黎陽虎牙営の士を率いて五原郡曼柏に駐屯します。
 
度遼将軍は西漢昭帝元鳳三年(前78年)に范明友が任命されました。今回は再設になります。
資治通鑑』胡三省注によると、光武帝は幽冀州の兵を率いて天下を平定し、黎陽に営を建てて謁者に監領させていました。兵騎(騎兵)千人です。
黎陽は魏郡に属す県です(『後漢書郡国志二』参照)
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋、十四の郡国で大水(洪水)がありました。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月、北宮が完成しました。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と資治通鑑』からです。
丙子(初四日)、明帝が辟雍に臨み、三老五更を養いました(養老の礼を行いました)
儀礼が終わってから三公に詔を発しました。郡国中都官(京師の官署)の獄から死罪の繫囚(囚人)を募り、罪を一等減らして、笞刑を行わずに度遼将軍の営に送らせます。彼等は朔方、五原の辺県に駐屯しました。妻子で自ら従った者がいたら辺県の籍に入れ(便占著辺県)、父母や同産(兄弟)で代わりたい者がいたら全て許可しました。
大逆無道の罪を犯した死刑囚は、全て集めて蚕室に下しました(死刑を免じて宮刑にしました)
亡命(逃亡)している者には罪の程度に応じた贖罪をさせました。
辺境に移住した者には皆、弓弩衣粮を下賜しました。
 
楚王劉英(明帝の異母兄弟)が黄縑白紈(縑も紈も絹の一種です)を持って国相(中央から派遣されます。『資治通鑑』胡三省注によると、西漢成帝が王国の内史を廃して国相に民を治めさせました。職は太守と等しく、秩は二千石です)を訪ね、こう言いました「藩輔(藩国)に身を置いて(託在藩輔)過悪(過失)が累積していますが、大恩に歓喜したので、縑帛を奉送することで愆罪(罪悪)を贖います。」
国相がこれを朝廷に報告しました。
 
明帝が詔を発して楚王に答えました「楚王は黄老の微言道家の奥深い言葉)を諳んじ、浮屠ブッダの仁慈を尊び、三月の潔斎(斎戒)をして神と誓いを為した。何を嫌い何を疑って悔吝(悔恨)が必要なのだ(何嫌何疑当當有悔吝)。ここに贖(贖罪のために贈った礼物)を還し、伊蒲塞、桑門の盛饌(豊かな食事)を助けることにする。」
 
「伊蒲塞」と「桑門」は仏教用語で、「伊蒲塞」は「優婆塞」とも書き、男の在家信者です。「桑門」は「沙門」とも書き、僧侶を指します。
資治通鑑』胡三省注によると、「浮屠」は「仏」を指し、西域天竺国に仏道がありました。「仏」は漢語の「覚」で、群生を覚悟(覚醒)させるという意味です。
仏道の教えは慈心の修善(修養・改善)を主とし、生き物を殺さず(不殺生)、専ら清静に務めました。教えに精通した者は「沙門」といいます。「沙門」は漢語の「息(この「息」は「止める」「消す」の意味です)」で、意を消して欲を除くことで(息意去欲)無為に帰すという意味です。
明帝は楚王が献上した財物を返して仏教徒を養うために使わせました。
 
以下、『資治通鑑』から仏教の解説です。
明帝はかつて西域に神がいると聞きました。その名を「仏」といいます。
そこで明帝は使者を天竺に送って仏の道を求めました。使者は仏教の書を得て沙門と共に帰国します。
仏教の書はおおよそ虚無を宗(主旨)としており、慈悲不殺(慈悲の心を持って命がある物を殺さないこと)を貴びました。
人が死んでも精神は滅ぶことなく、再び形を得て生まれ変わり(隨復受形)、生きている時に行った善悪が全て報応(応報)すると考えているため、精神の修煉を貴んで仏の境地に達することを提唱しました。
宏闊勝大(広大)の言を得意とし、それによって愚俗(愚昧な俗人。民衆)を勧誘しました。
その道に精通した者は沙門と号します
明帝時代に始めて中国でもその術(仏教)が伝えられ、(仏の)形像が描かれました。王公貴人の間では楚王劉英が最も早くから仏教を好みました。
 
次は『後漢書西域伝(巻八十八)』から仏教の伝来に関する記述です。
伝えによると、明帝が夢で金人を見ました。金人は長大になり、頂に光明があります。
明帝がこの事を群臣に問うと、ある者が「西方に神がおり、名を仏といいます。その形は身長一丈六尺で黄金の色です」と言いました。
そこで明帝は使者を天竺に送って仏道の法を問いました。その後、中国でその形像が描かれるようになります。
楚王劉英は最初にその術(仏教)を信じ、ここから中国でもその道を信奉する者が増えていきました。後に桓帝が神を好んだので、しばしば浮図や老子を祀りました。百姓でも仏を奉じる者が増え始め、隆盛するようになります。
 
資治通鑑』胡三省注は少し詳しく書いています。
西漢武帝が霍去病を派遣して匈奴を討伐し、休屠王の金人を得ました。武帝はそれを大神として甘泉宮に安置しましたが、祭祀は行わず、香を焚いて礼拝しただけでした。これが仏道流通の開始です(この記述を見ると匈奴は仏教を信仰していたようです)
張騫が使者として大夏に行き、その近くに身毒国があるということが伝えられました。身毒は一名を天竺といいます。この時、始めて浮屠の教えがあると聞きました。
哀帝元寿元年(前2年)、博士弟子秦景憲が大月氏王の使者伊存から浮屠の経を口頭で授かりましたが、中国はそれを聞いてもまだ信じませんでした。
後に東漢明帝が金人の夢を見ました。頂に白光があり、殿庭を飛行します。
明帝が群臣に問うと、傅毅が始めて仏について語りました。
明帝は郎中蔡愔等を天竺に派遣し、浮屠の遺範(遺像)を描ました。
蔡愔等は沙門攝摩騰、竺法蘭と共に東の洛陽に還りました。ここから中国で沙門跪拝の法が始まります。
蔡愔が還った時、白馬に経を載せていました。漢は洛城雍関西(洛陽城西の雍門の外)白馬寺を建てました。
 
中国に始めて伝えられた経典は『四十二章経』といわれており、『仏説四十二章経解』の冒頭個所に記述があります。以下、『仏説四十二章経解』から抜粋します。
明帝永平三年60年)、明帝が金人の夢を見たため群臣に意見を求めると、太史傅毅が「臣は西域に神がいると聞きました。これを号して仏といいます。陛下が夢で見たのはこれに違いないでしょう」と答えました。
博士王遵も仏について語りました。詳細は省きますが、「仏は周昭王二十六年(西暦でいつに当たるかははっきりしません)、甲寅の時に誕生した」と言っています。
明帝は永平七年、甲子の年64年。前年)、郎中蔡愔、中郎将秦景、博士王遵等十八人を西方に派遣して仏法を求めました。
蔡愔等は印度に着いてから迦葉摩騰および竺法蘭に同行を請い、白馬で経を運びました。舎利や仏像の画も持ち帰ります。
永平十年、丁卯の年67年)、洛陽(雒陽)に到着しました。
喜んだ明帝は白馬寺を建立し、『四十二章経』を翻訳させました
 
 
 
次回に続きます。