東漢時代82 明帝(十一) 鄭衆の上書 65年(2)

今回は東漢明帝永平八年の続きです。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と資治通鑑』からです。
壬寅晦、皆既日食がありました(日有食之既)
 
明帝が詔を発しました「朕は無徳によって大業を奉承(継承)したため、下に人の怨恨を残し(下貽人怨)、上は三光(日月星)を動かした。日食の変は災の最も大きなものであり、『春秋』の図讖が至譴(最大の天譴)としているところである(『後漢書・粛宗孝章帝紀によると、君主が明聖なら天道が正しくなり、日月が光明を発して五星に度(規則)があります。日が明るければ道が正しく、明るくなければ政治が乱れているとみなされたので、日食があったら常に自分を戒めました)。永くその咎を思うに、(問題は)予一人(天子の自称)にある。群司(百官)は職事を修めること(職責を全うすること)に勉め、直言して憚ってはならない(極言無諱)。」
 
そこで官位にいる者が皆、封事(密封した上書)を提出し、それぞれが政事の得失を述べました。
明帝は上奏文を閲覧してから深く自責し、上奏文を百官に公示したうえで詔を発しました「群僚が語ったことは全て朕の過(過失)である。人冤(民の冤罪。『顕宗孝明帝紀』では「人冤」ですが、『資治通鑑』は「民冤」としています)を理す(正す)ことができず、吏黠(官吏の狡猾な行為)を禁じることもできず、逆に軽率に民力を用いて宮宇(宮殿)を繕脩(修繕)し、出入(出資と税収)に節(限度)がなく、喜怒が度を失っている(喜怒過差)。昔は応門が失守したら『関雎』で世を風刺し、飛蓬隨風(一定した主張がないこと。状況に応じて態度が簡単に変わること)は微子が嘆息した(下述します)。永く先人の戒めを閲覧して、戦戦兢兢としている(永覧前戒竦然兢懼)。ただ(朕の)徳が薄く、久しくして怠惰に陥ることだけを恐れる(徒恐薄徳久而致怠耳)。」
 
文中の「昔は応門が失守したら『関雎』で世を風刺し、飛蓬隨風は微子が嘆息した(昔応門失守,関雎刺世。飛蓬隨風,微子所歎)」という部分は『顕宗孝明帝紀』の記述で、『資治通鑑』は省略しています。
応門は王宮の正門です。「応門が失守する」というのは、君主の政治が正しくないため、応門の守りを失う(国を失う)という意味です。
「関雎」は『詩経国風』の詩です。男女の関係を歌った詩ですが、「不淫」と評価されてきました。
「応門が失守したら『関雎』で世を風刺した」というのは、国君が淫に傾いて政治が正しくなくなったら、『関雎』の詩で風刺して諫めたという意味です(『顕宗孝明帝紀』注参照)
「飛蓬隨風は微子が嘆息した」に関してはよくわかりません。『顕宗孝明帝紀』の注も「ここで言っている微子は詳しくわからない(此言微子未詳)」と書いています。
 
[] 『資治通鑑』からです。
北匈奴は使者を送って東漢に入貢してからも、寇鈔(侵略)を止めませんでした。そのため、東漢辺境の城門は昼でも閉じたままでした。
 
後漢書・顕宗孝明帝紀はこの年に「北匈奴が西河諸郡を侵した」と書いています。
 
資治通鑑』に戻ります。
明帝は北匈奴が送った使者に応える人材を決めるために群臣と議論しました。
しかし鄭衆が上書して諫めました「臣が聞くに北単于が漢の使者を到らせようとするのは、南単于の衆を(漢から)離れさせて、三十六国の心を堅くするためです(三十六国は西域諸国です。西漢武帝が西域経営を始めた時、三十六国がありました。実際には、東漢時代までに更に増えています。心を堅くするというのは、西域諸国の北匈奴に対する帰順の心を強くさせるという意味です)。また、漢との和親を宣揚して鄰敵(近隣の敵国)に誇示し、西域で(漢への)帰化を欲する者を局足狐疑(「局足」は脚を曲げること、足踏みすること。「狐疑」は猜疑することです)させ、懐土の人(故郷を懐かしむ人。境外に流亡している漢人を中国に対して絶望させようとしているのです。漢使が到ったら単于は)驕慢になって自信を持ち(偃蹇自信)、もし更に再び(使者を)派遣したら虜匈奴は必ず謀を得た(謀が成功した)と思い(自謂得謀)、その北匈奴の)群臣で駁議の者(「駁議」は反対意見を述べるという意味です。ここでは漢への帰順を主張している者が「駁議の者」に当たります)が敢えて再び発言しようとしなくなります。そうなったら南庭南匈奴が動揺し、烏桓が離心します(『資治通鑑』胡三省注によると、南匈奴単于庭は西河美稷にあります。南匈奴が動揺したら漢から離れて塞北に去ることを欲するはずです。烏桓匈奴に附いていましたが、漢が校尉を置いて領護し、匈奴との交通を絶たせました。離心したらまた匈奴と通じるようになります)。南単于は久しく漢地に住み、形勢を詳しく知っているので、万一離散したら(万分離析)すぐ辺境の害になります。今は幸いにも度遼(度遼営)の衆が北垂(北の国境)で武威を揚げているので、報答しなくても北匈奴に答礼の使者を送らなくても)、敢えて患(難)を為そうとはしません。」
明帝はこの意見に従わず、再び鄭衆を北匈奴に派遣することにしました。
鄭衆が上書しました「以前、臣が使者の命を奉じた時(奉使)匈奴のために拝さなかったため、単于は恚恨(怨恨)して、兵を送って臣を囲みました。今また銜命したら(命を受けたら)、必ず陵折(凌辱)に遭います。臣は誠に大漢の節を持ちながら氈裘(北方民族の毛皮の衣服)に対して独拝(特別に敬意を表して拝礼すること)することが堪えられません(臣誠不忍持大漢節対氈裘独拝)。もしも匈奴に臣を屈服させる機会を与えたら(臣を使者として派遣したら。原文「如令匈奴遂能服臣」)、大漢の強を損なうことになります。」
明帝はやはり諫言を聴きませんでした。
鄭衆はやむなく出発しましたが、道中でも立て続けに上書して頑なに反対しました。
 
明帝は詔を発して鄭衆を厳しく譴責し、呼び戻して廷尉に繋げました。
しかしちょうど赦大赦があったため、鄭衆は家に帰されました。
 
後に明帝が匈奴から来た使者に会い、鄭衆が単于と礼について争った状況を聞きました。
そこで明帝は再び鄭衆を召して軍司馬に任命しました。
資治通鑑』胡三省注によると、大将軍は五部を管理し、部には校尉一人(比二千石)と軍司馬一人(比千石)がいました。校尉を置かない部でも軍司馬一人がいました。
 
 
 
次回に続きます。