東漢時代83 明帝(十二) 劉荊事件 66~67年
今回は東漢明帝永平九年と十年です。
東漢明帝永平九年
丙寅 66年
春三月辛丑、明帝が詔を発しました。郡国の死罪囚(死刑囚)の罪を減らして妻子と共に五原、朔方に送り、その地の籍に入れさせます(占著)。
その地で死んだ者は皆、妻の父か男同産(男兄弟。ここでは妻の兄弟を指します)一人の賦役を終生免除しました(復終身)。妻に父兄がなく、母しかいない場合は、母に銭六万を下賜し、口筭(人頭税)を免除しました(復其口筭)。
また、司隸校尉と部刺史に命じ、墨綬長吏で任に就いて三年以上経ち(墨綬長吏視事三歳已上)、治状(施政の成績)が特に優秀な者(治状尤異者)を、毎年それぞれ一人挙げて、計(計吏。朝廷に地方の業績を報告する官吏)と共に上京させることにしました。また、施政が特に劣る者(尤不治者)も報告させました。
明帝が皇子・劉恭の号を霊寿王に、劉党の号を重熹王にしました。但し、美名を与えただけで国邑はありません。
(明帝は)功臣の子孫や四姓の末属のために(太学とは)別に校舍を建てました。高能(能力がある者)を選抜してその業を授け(授業を受けさせ。原文「搜選高能以受其業」)、期門・羽林の士も全て『孝経』の章句に精通させます。
匈奴も子を送って入学させました。
この年、劉荊がまた相工(人相を看る者)を呼んでこう言いました「わしの容貌は先帝に似ている(我貌類先帝)。先帝は三十で天下を得た。わしも今また三十だ。兵を起こすことができるか(可起兵未)?」
相者(相工)はこれを官吏に報告しました。
劉荊は惶恐(恐惶)して自ら獄に繋がれます。
明帝は恩を加えてこの件を追求しませんでしたが、詔を発して劉荊が吏民を臣属できないようにさせ(吏民の統治を禁じたという意味です。吏民を率いて謀反する恐れがあるからです)、食租(税収)だけは以前のままにしました。
ところが劉荊がまた巫に祭祀・祝詛を行わせました。
明帝は長水校尉・樊鯈等に詔を発し、協力してこの獄(事件)を審理させます。
祭祀・祝詛の事が明らかになってから、樊鯈等は劉荊の誅殺を請う上奏をしました。
すると明帝は怒ってこう言いました「諸卿は我が弟だから誅殺を欲しているが、もし我が子だったら、卿等はこのようにできるか(敢爾邪)!」
樊鯈が答えました「天下は高帝の天下であり、陛下の天下ではありません。『春秋』の義によるなら、国君と親しい者に謀反はなく、謀反があったら必ず誅すものです(原文「君親無将,将而必誅」。「将」は弑逆、謀反の意味です)。臣等は劉荊が(陛下の)同母弟という関係にあり(属託母弟)、陛下が聖心を留めて(留意して)惻隠(同情。憐れむ心)を加えているので、敢えて(誅殺を)請うたのです。もしも陛下の子だったら、臣等は専誅(専断誅殺。自分の判断で誅殺すること)するまでです。」
明帝は感嘆して樊鯈を称賛しました。
東漢明帝永平十年
丁卯 67年
夏四月戊子(二十四日)、明帝が詔を発しました「昔歳(去年)は五穀登衍(豊饒)で、今も蚕麦が善收(収穫が多いこと)である。よって天下に大赦する。ちょうど盛夏の長養の時なので、元凶を除くことで(蕩滌宿悪)農功に報いる(農事に不利なことは除いて農業を優先させる)。百姓は桑稼(農業)に勉務して(努力して)災害に備えよ。吏は自分の職を敬い、愆墯させてはならない(自分を誤らせてはならない。原文「吏敬厥職,無令愆墯」)。」
こうして大赦が行われました。
『鹿鳴』を演奏した時、明帝自ら塤・篪(どちらも管楽器の一種です)を吹いて和し、嘉賓を喜ばせました。
帰る途中、南頓を訪ねて三老、官属を労饗(慰労の宴を開くこと)しました。
冬十一月、淮陽王・劉廷を招いて平輿で会見し、沛王・劉輔を招いて睢陽で会見しました。
十二月甲午(初四日)、皇宮に還りました。
陵陽侯・丁綝が死んだ時、子の丁鴻が封国を継承するはずでしたが、丁鴻は上書して病を理由に国を弟の丁盛に譲ろうとしました。
しかし朝廷が回答しなかったため、丁綝の埋葬が終わると丁鴻は衰絰(喪服)を冢廬(墓守用の小屋)に掛けて逃走しました。
丁鴻の友人で九江の人・鮑駿が東海で丁鴻に遇いました。
鮑駿が丁鴻を責めて言いました「昔、伯夷や呉札(伯夷は商代末期の孤竹君の子で、弟の叔斉に位を譲りました。季札は春秋時代の呉王・寿夢の末子で、諸兄が季札に国を譲ろうとしましたが、季札はそれを辞退して農耕に励みました)は乱世における時勢に応じた態度だったので(乱世権行)、その志を明らかにすることができた(故得申其志耳)。『春秋』の義によるなら、家事によって王事を廃しては(疎かにしては)ならない。今、子(あなた)は兄弟の私恩によって父が建てた不滅の基(基礎。業績)を絶ったが、それでいいのか(可乎)。」
丁鴻は誤りを悟って涙を流し、すぐに帰国して封地を継ぎました。
鮑駿は丁鴻を推薦する上書を行い、経学に精通していて品行も卓越していることを述べました。
明帝は丁鴻を招いて侍中にしました。
喜んだ明帝は白馬寺を建立し、天竺から運ばれた『四十二章経』を翻訳させました
次回に続きます。