東漢時代84 明帝(十三) 哀牢夷 68~69年

今回は東漢明帝永平十一年と十二年です。
 
東漢明帝永平十一年
戊寅 68
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、沛王劉輔、楚王劉英、済南王劉康、東平王劉蒼、淮陽王劉延、中山王劉焉、琅邪王劉京、東海王劉政が来朝しました。
 
東平王劉蒼等は一月余りで帰国し、明帝が自ら送り出しました。
明帝は皇宮に還ってから、劉蒼との別れを悲しんで思念し(悽然懐思)、使者を送って手詔(自筆の詔)を東平国の中傅に下賜しました。そこにはこう書かれています「辞別の後、一人で座しても楽しめなかったので、車に乗って帰り、軾(車の前についた横木)に伏して吟じ(詩歌を口ずさみ)、遠くを眺めて永く懐かしみ(瞻望永懐)、実に我が心を労苦させた。誦(詩の暗唱)が『采菽詩経小雅)』に及ぶと、ますます嘆息が増えた(『采菽』には「君子が来朝した。何を下賜するのか(君子来朝,何錫予之)」等の句があります)。最近、東平王に『家にいて最も楽しいことは何だ(処家何等最楽)?』と聞いたら、王はこう言った『善を為すのが最も楽しいことです(為善最楽)。』その言は甚だ大(偉大。立派)であり、(王の)腰腹に符合している(原文「副是要腹矣」。「要」は腰の意味です。『資治通鑑』胡三省注によると、劉蒼の腰は十囲の太さがありました)。今、列侯の印十九枚を送り、(東平王の)諸王子で年が五歳以上かつ趨拝(小走りでの移動と拝礼。礼儀を行うことを指します)できる者に全てこれを帯びさせる。」
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』からです。
秋七月、司隷校尉郭霸が獄に下されて死にました。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀からです。
この年、湖で黄金が出たため、廬江太守が献上しました。
当時は麒麟、白雉、醴泉(甘泉)、嘉禾が所々で現れました。
 
 
 
東漢明帝永平十二年
己巳 69
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀と『資治通鑑』からです。
春、益州(界外)の夷である哀牢王柳貌がその民五万余戸を率いて内附しました。
 
資治通鑑』はここで「その地(哀牢の地)に哀牢と博南の二県を置いた」と書いており、『後漢書・顕宗孝明帝紀は「永昌郡を置いて益州西部都尉を廃した」と書いています。
後漢書南蛮西南夷列伝(巻八十六)』を見ると、「顕宗(明帝)はその地に哀牢、博南の二県を置き、益州郡の西部都尉が領す(管理する)六県を割いて永昌郡に合わせた」とあります。
後漢書郡国志五』によると、明帝永平二年(恐らく「永平十二年(本年)」の誤りです。「永平二年」は59年です)益州郡を分けて永昌郡を設けました。益州郡から分かれたのは不韋、、比蘇、楪楡、邪龍、雲南の六県(『南蛮西南夷列伝』がいう「西部都尉が領す六県」)です。永平年間(本年)に改めて哀牢と博南の二県も置かれました。
 
以下、『資治通鑑』からです。
東漢は博南山の道を開き、蘭倉水(川)を渡れるようにしました。しかし行者(旅人。ここでは道を開くために駆り出された人夫)はこれを苦とし、歌を作ってこう言いました「漢の徳は広く、服従しない者のために道を開く。蘭倉を渡っても、それは他人のためだ(漢徳広,開不賓。度蘭倉,為他人)。」
 
資治通鑑』胡三省注によると、哀牢夷は九隆種(九隆族。下述します)です。牢山に住み、山川に深く守られ、中国とは交通がありませんでした。雒陽から西南七千里に位置します。
博南県の西山は高さが三十里あり、山を越えると蘭倉水に至ります。蘭倉水では金沙(砂金)が採れました。
 
後漢書南蛮西南夷列伝(巻八十六)』から哀牢夷について紹介します。
哀牢夷の先祖に沙壹という婦人がおり、牢山に住んでいました。
ある日、水中で魚を獲っている時、沈んでいる木に触れて感応し、妊娠しました。十カ月後、十人の男子を生みます。
後に沈木が龍に姿を変えて水上に現れました。沙壹が突然、龍の言葉を聞きます「汝はわしのために子を生んだ。今、皆はどこにいる?」
龍を見た子供達のうち、九人は驚いて逃げ出しましたが、小子だけは去ることができず、龍に背を向けて坐りました。龍は小子を舐めます。
母は鳥語(理解困難な言葉。異民族の言葉)を話し、「背」を「九」と言い、「坐」を「隆」と言ったため、小子の名を「九隆」にしました。
九隆が成長してから、諸兄は九隆が父に舐められることができて、しかも黠(聡明)だったので、共に推して王に立てました。
 
牢山の下に一夫一婦がおり、十人の女子を生みました。九隆兄弟は十人の女子から妻を娶り、その後代がしだいに滋長(成長。拡大。繁栄)していきました。
種人(族人)は皆、身体に龍の模様を刻み(龍の刺青をし)、衣服には尾のような形がついていました。
九隆の死後も王位を代々継承し、また、小王を分けて置きました。彼等は所々で邑(村)を作って住み、渓谷に分散しました。
 
『南蛮西南夷列伝』の注に九隆以降の王について書かれています。
九隆は代代王位を伝えましたが、名号も代数もわかりません。
禁高に至ってからは記録が残されています。禁高が死んで子の吸が継ぎ、吸が死んで子の建非が継ぎ、建非が死んで子の哀牢が継ぎ、哀牢が死んで子の桑藕が継ぎ、桑藕が死んで子の柳承が継ぎ、柳承が死んで子の柳貌が継ぎ、柳貌が死んで子の扈栗(または「扈粟」)が継ぎました。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
西漢平帝時代に黄河汴水が決壊しましたが、久しくしても修復しませんでした。
東漢光武帝建武十年、光武帝が修復しようとしましたが、浚儀令楽俊が「民が兵革(戦争)を被ったばかりなので(新被兵革)、まだ役を興すべきではありません」と上書したため、中止しました。
その後、汴渠が東に氾濫し、日々拡大していきました(日月彌広)
兗州や豫州の百姓は、「県官(朝廷。天子)はいつも他の役(工事)を興して民の急難よりも優先させている」と考えて怨嘆しました。
ちょうどこの頃、ある人が楽浪の人王景を治水ができる者として推薦しました。
 
夏四月、明帝が詔を発して卒数十万を動員しました。王景と将作謁者王呉を派遣して汴渠隄を修築させます。
資治通鑑』胡三省注によると、謁者は光禄勳に属します。王呉は謁者の立場で将作(建築を担当する官)になったので、「将作謁者」といいます。
 
王景等は滎陽東から千乗海口に至る千余里に、十里ごと一つの水門を造り、水門の間で水を回して流れを調整させました(令更相洄注)。この後、潰漏(決壊、水漏れ)の憂患がなくなります。
王景は役費(工事の費用)を節約しましたが、それでも百億を数える費用がかかりました(古代は十万を「億」といいました。治水工事は翌年に完成します)
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』からです。
五月丙辰、天下の男子に一人当たり二級の爵を、三老孝悌力田に一人当たり三級を、流民(流亡の民)で名数(名簿戸籍)がなくても名乗り出て籍を欲した者(流民無名数欲占者)には一人当たり一級を下賜し、鰥寡(配偶者を失った男女)孤独(孤児や身寄りがない老人)𤸇(重病の者)貧困で家属もなく自存できない者には一人当たり三斛の粟を与えました。
明帝が詔を発して言いました「昔、曾(曾参と閔損。どちらも孔子の弟子で、孝行が知られていました)は親を奉じて全力で養い(原文「竭歓致養」。「致養」は老人を養うことです。「竭歓」はよくわかりません。直訳すると「歓を尽くす」です。尽力して親を喜ばせたという意味かもしれません)、仲尼が子を埋葬した時は、棺があっても椁がなかった孔子の子は孔鯉といい、孔子よりも先に死にました。「棺」は「内棺」、「椁」は「外棺」です)。喪(葬礼)で貴ぶべきは致哀(哀情を表現すること)であり、礼は寧倹(死者の安寧と生者の倹約)にかかっている(礼存寧倹)。しかし今、百姓の送終の制(葬儀の制度)は奢靡(奢侈)であることを競っている。生者には擔石の儲(一擔一石の蓄え。わずかな蓄え。「擔」も「石」も重さの単位です)もないのに、墳土において財力を尽くしている。伏臘(伏は夏の祭祀、臘は冬の祭祀です)には糟糠もないのに、牲牢が一奠で兼ねられている(複数の犠牲が一回の葬儀で使われている。原文「牲牢兼於一奠」)。積世の業を損なって終朝(早朝。一朝)の費用として使い(糜破積世之業,以供終朝之費)、子孫が飢寒してこのために命を絶っている。これが祖考(祖先)の意であろうか(豈祖考之意哉)。また、車服の制度(規格)もほしいままに耳目を極めている(見た目や評価を追及している。原文「恣極耳目」)。その結果、田が荒れても耕さず、游食の者(職がない者)が多数いる。有司(官員)は科禁(禁令)を申明(宣言)し、今日に相応しい事を(宜於今者)郡国に宣下(宣布)せよ。」
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月乙亥(二十四日)、司空伏恭を罷免しました。
乙未(中華書局『白話資治通鑑』は「乙未」は恐らく誤りとしています)、大司農牟融(『資治通鑑』胡三省注によると、祝融の後代に牟子国があり、そこから牟氏が生まれました)を司空にしました。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』からです。
冬十月、司隷校尉王康が獄に下されて死にました。
前年には司隷校尉郭霸が獄に下されて死にました。事件の詳細は分かりません。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
当時は(『顕宗孝明帝紀』では「是歳(この年は)」ですが、ここは『資治通鑑』の「是時(この時は。当時は)」に従いました)天下が安平(泰平)で、人(民)には徭役がなく、連年豊作で(歳比登稔)、百姓が殷富(富裕)になりました。粟は一斛三十銭になり、牛羊が野を覆います。
 
明帝とその跡を継いだ章帝の時代は「明章の治」として称賛されています。
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代85 明帝(十四) 劉英事件 70年