東漢時代85 明帝(十四) 劉英事件 70年

今回は東漢明帝永平十三年です。
 
東漢明帝永平十三年
庚午 70
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀からです。
春二月、明帝が藉田を耕しました(古代は民に農耕を奨励するために天子や諸侯が田を耕しました。その地を「藉田」といいます)
儀礼が終わってから、観者(観衆)に食物を下賜しました。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀からです。
三月、河南尹薛昭が獄に下されて死にました。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月、汴渠が完成しました。黄河と汴水が分かれて流れ、旧迹(古い川筋)を回復します。
資治通鑑』胡三省注によると、黄河と汴水の決壊は、汴水が東に溢れて黄河と合流したのが原因でした。今回、堤防が完成し、黄河は東北に流れて海に入り、汴水は東南に流れて泗水に入るようになりました。
 
辛巳(初四日)、明帝が滎陽を行幸し、河渠を巡行しました。
 
乙酉(初八日)、明帝が詔を発しました「汴渠が決敗(決壊)して六十余歳(六十余年)になり、加えて頃年(近年)以来、雨水が時に応じず(雨水不時)、汴が流れて東侵し、日に日にひどくなった(日月益甚)。水門の故処(かつて水門があった場所)は全て河中にあり、漭瀁(広大な様子)と広く(水が)溢れて圻岸(曲湾)も測れず(対岸も見えず)、蕩蕩(広大な様子。または水が勢いよく流れる様子)とした遠望を(蕩蕩極望)治める方法が分からなかった(不知綱紀)。最近、兗豫の人は多くが水患を被り、『県官(朝廷。天子)は人急(民の急務。治水)を優先せず、他の役(労役。工事)を興すことを好んでいる』と言った(云県官不先人急,好興它役)。また、ある者は、河流が汴に入れば幽・冀利を蒙ると考えているので黄河が汴水と合流して南岸に決壊すれば黄河以北の幽冀州は水害がなくなります)、『左隄を強くすれば右隄が損なわれ、左右を共に強くすれば下方が損なわれる。水勢の行くところに任せ、人々を高い地形に沿って住ませるべきだ。そうすれば、公家(朝廷)は壅塞の費(川を塞ぐ出費)を止めることができ、百姓には陷溺(水没)の患がなくなる』と言った。意見が異なり(議者不同)、南北で論が異なるので(南北異論)、朕は従うべきところが分からず、久しく決断できなかった。
しかし今、既に隄を築いて渠を治め(築隄理渠)、水を絶って門を建てたので、河汴が分かれて流れ、その旧迹を回復し、陶丘の北は徐々に土地が隆起している(水がなくなっている。原文「陶丘之北漸就壤墳」)。よって嘉玉絜牲を薦めて河神に礼し(『顕宗孝明帝紀』の注によると、「嘉玉」は「祭玉(祭祀で使う玉)」、「絜牲」は「剛鬣(祭祀で使う豚)」です)、東は洛汭(洛水が黄河に入る場所)を通って禹の績(禹による治水の業績)に感嘆した。今、五土の宜がその正色を返した(『顕宗孝明帝紀』の注によると、山林、川沢、丘陵、墳衍(水辺と平坦な地)、原隰(平原と湿地)を「五土」といいます。色は黄、白、青、黒等です。「五土の宜がその正色を返した」というのは、「水が去ったので土がその性を回復した」という意味です)。浜渠の下田(渠に隣接する下等の田地)は貧人に与え、豪右(豪族)にその利を固めさせてはならない。世宗瓠子の作西漢武帝による瓠子の偉業。西漢武帝元封二年109年参照)を受け継ぐことを望む(庶継世宗瓠子之作)。」
 
この後、明帝は黄河を渡り、太行山を登り、上党を訪ねました。
 
壬寅(二十五日)、皇宮に還りました。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月壬辰晦、日食がありました。
 
三公が冠を脱いで自ら弾劾しましたが、明帝は制(皇帝の命令)を発してこう言いました「冠と履物を身に着けよ。弾劾の必要はない(冠履勿劾)。災異がしばしば現れているが、咎は朕の躬(身)にあり、憂懼遑遑(「遑遑」は不安な様子です)としてまだその方(解決の方法)を知らない。有司(官員)が事を述べる時、隠諱(隠し事)が多いため、君上を壅蔽させ(国君の耳目を塞ぎ)、下に不暢(不通。情報が伝わらないこと)があるのだろうか。昔、衛に忠臣がいたため、霊公はその位を守ることができた(衛霊公は無道でしたが、仲叔圉、祝鮀、王孫賈といった優秀な臣下がいたため、国を治めることができました。『論語憲問篇』に記述があります)。今、何をもって陰陽を和穆(和睦、調和)させ、災譴(災難天譴)を消伏(消滅)できるだろう。刺史、太守は刑を慎重に行って冤罪を解決し(詳刑理冤)、鰥孤(身寄りがない者)を慰撫し(存恤鰥孤)、勉めて職を思え(勉思職焉)。」
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と資治通鑑』からです。
楚王劉英(明帝の異母兄弟)と方士が金亀や玉鶴を作り、文字を刻んで符瑞にしました。
燕広(『資治通鑑』胡三省注によると、燕氏は燕召公の後代です。燕国が秦に滅ぼされてから、子孫が国名を氏にしました)という男が「劉英と漁陽の人王平、顔忠等が図書を作っており、逆謀(謀反の企み)がある」と告発しました。
朝廷がこの件を調査させます(事下案験)
その結果、有司(官員)が上奏しました「劉英は大逆不道なので誅殺を請います。」
明帝は親親(肉親の情)によって誅殺できませんでした。
 
十一月、劉英の王位を廃して丹陽郡涇県に遷し、湯沐邑五百戸を下賜しました。湯沐邑は、その地の賦税が所有者の収入になります。
また、劉英の男女(息子、娘)で侯や主(公主)に当たる者は、食邑をそのままにし、許太后(劉英の母)にも璽綬を返上させず、楚宮に留めて生活させました。
但し、劉英に連座して死刑や徙刑(流刑)に処された者は数千人に上ります。翌年再述します。
 
以前、劉英の謀を司徒虞延に密告した者がいました。しかし虞延は劉英が藩戚至親(「藩戚」は天子の肉親として王になった者、「至親」は非常に親しいことです)だったため、密告を信じませんでした。
劉英の事件が発覚すると、明帝は詔書を下して虞延を厳しく譴責しました。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』からです。
この年、斉王劉石が死にました。
 
劉石は斉哀王劉章の子で、劉章は劉縯の子です。
後漢書宗室四王三侯列伝(巻十四)』によると、劉石の諡号は煬王です。劉石の死後、子の劉晃が跡を継ぎました。劉晃は後に罪を犯して蕪湖侯に落とされます。
 
 
 
次回に続きます。