東漢時代86 明帝(十五) 楚獄 71年

今回は東漢明帝永平十四年です。
 
東漢明帝永平十四年
辛未 71
 
[] 『資治通鑑』からです。
春三月甲戌(初三日)、司徒・虞延を罷免しました。
虞延は自殺しました。
太常周澤が司徒の政務を代行することになりましたが(行司徒事)、暫くして太常に戻されました。
 
夏四月丁巳(十六日)、鉅鹿太守南陽の人邢穆(『資治通鑑』胡三省注によると、邢は周公の後裔の国です。衛に滅ぼされてから子孫が国名を氏にしました)を司徒に任命しました。
 
後漢書儒林列伝(巻七十九下)』を見ると、二年前の明帝永平十二年69年)に周澤が司徒代行になり(行司徒事)、職務の内容は正式な官と同等でしたが(如真)、周澤の性格が淡白で(性簡)、威儀を重視しなかったため、宰相の望(声望)をひどく失い、数カ月後に太常に戻されました。
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は「永平十二年は司徒に欠けがないので、虞延が罷免されてから邢穆が任命される間に周澤が司徒の政務を代行したはずだ」と解説しています。
 
後漢書・顕宗孝明帝紀』は「春三月甲戌、司徒・虞延が罷免されて自殺した。夏四月丁巳、鉅鹿太守南陽の人邢穆を司徒にした」とだけ書いており、劉澤には触れていません。
『顕宗孝明帝紀』の注によると、邢穆は字を綏公といい、宛の人です。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
元楚王劉英は丹陽に至ると自殺してしまいました。
 
明帝は詔を発して諸侯の礼で劉英を涇に埋葬させました。
また、告発した燕広を折姦侯に封じました。
 
当時は楚獄(劉英事件)を厳しく追及しており、年を越えても終わりませんでした。逮捕された者の辞語(自供の言葉)が他者を巻き込み、京師の親戚、諸侯や州郡の豪桀から考按の吏(事件を調査している官吏)に及ぶまで、多数の者が阿附の罪(楚王に迎合して陰謀に加わった罪)に坐したため、死刑や徙刑(流刑)に処された者は千を数え、獄に繋がれた者も数千人いました。
 
以前、樊鯈(樊宏の子。樊宏は光武帝の母の兄弟です)の弟樊鮪が自分の子樊賞のために楚王劉英の娘との婚姻を求めました。
それを聞いた樊鯈は弟を止めてこう言いました「建武年間、我が家は並んで栄寵を受け、一宗で五侯が出た(『後漢書樊宏陰識列伝(巻三十二)』によると、樊宏が長羅侯に、樊宏の弟樊丹が射陽侯に、兄の子樊尋が玄郷侯に、族兄樊忠が更父侯になり、後に樊宏が寿張侯に定められました)。当時は特進(樊宏)の一言で、娘は王(皇帝の子)に配す(嫁ぐ)ことができ、男は主(公主)を娶ることができたが(女可以配王,男可以尚主)、貴寵が過度に盛んになったら禍患になるのでそうしなかった。そもそも汝は一子しかいないのに、どうして楚に棄てようとするのだ(柰何棄之於楚乎)。」
樊鮪は忠告に従いませんでした。
楚王の件が発覚した時、樊鯈は既に死んでいましたが、明帝が樊鯈の謹恪(恭敬慎重)を追念したため、諸子は連座せずにすみました。
 
劉英は秘かに天下の名士と通じていました(陰疏天下名士)
明帝がその録(劉英と通じていた者の名簿)を得たところ、呉郡太守尹興の名がありました。
明帝は尹興および掾史五百余人を招き、廷尉に送って審問を受けさせました。諸吏は掠治(拷問)に勝てず、死者が大半に及びます。
しかし門下掾(郡長官の属吏)陸続、主簿梁宏、功曹史駟勳は五毒(『資治通鑑』胡三省注によると、「五毒」は四肢と体が全て酷刑を受けること、または鞭、箠棍棒、灼(焼く。炙る)、徽、纆(徽と纆は縄で縛ることです。縛り方に違いがあるようです)の五種類の拷問を指します)を全て受けて肌肉が消爛(糜爛)しても最後まで証言を変えませんでした(劉英との関係を否定しました)
 
陸続の母が呉から雒陽に来て食べ物を作り、陸続に送りました。
陸続は拷問に遭っても、言葉も顔色も変えませんでしたが、母が作った料理を見て悲泣を我慢できなくなりました。
治獄使者(審問のために派遣された官吏)が理由を問うと、陸続はこう言いました「母が来ても会うことができません。だから悲しいのです。」
治獄使者が問いました「なぜ(母が来たことを)知っているのだ?」
陸続が言いました「母は肉を切る時、方(方形。方正)でなかったことがなく、葱を切る時は一寸を度(基準)としていました。だから知ったのです。」
使者はこの事を明帝に報告しました(『後漢書独行列伝(巻八十一)』には「(使者が)秘かに(陸続を)嘉して上書した」と書かれています)
明帝は尹興等を赦免しましたが、終身禁錮(終生官位に就けない刑)としました。
 
顔忠と王平は隧郷侯耿建、朗陵侯臧信、濩澤侯鄧鯉、曲成侯劉建も関与していたと自供しました。
資治通鑑』胡三省注によると、耿純の弟(従弟)耿宿が隧郷侯に封じられました。耿建は耿宿の後を継いだ者ですが、詳しい関係はわかりません。朗陵侯臧信は臧宮の子です。鄧鯉と劉建の詳細はわかりません。
 
耿建等は顔忠や王平と会ったことがないと言いましたが、当時の明帝は激怒しており、吏も皆、惶恐(恐惶)していたため、巻き込まれた者がいたらほとんど全て罪に陥れて裁きを行い、敢えて真実に基いて寛恕しようという者はいませんでした。
しかし侍御史(または「寒朗」)は冤罪に心を痛めていたため、試しに単独で顔忠と王平に耿建等の物色(容貌)を問いました。果たして、二人はあわてるだけで回答できません(錯不能対)
朗は二人の嘘を知って明帝に進言しました「耿建等に姦悪はなく、ただ顔忠、王平に誣告されただけです。恐らく天下の無辜(罪がない者。冤罪の者)は多くがこのようであるはずです(疑天下無辜類多如此)。」
明帝が問いました「そうだとしたら、顔忠と王平はなぜ(彼等を)巻き込んだのだ(何故引之)?」
朗が答えました「顔忠と王平は自分が不道(大逆)を犯したと知っているので、虚偽によって多くの人を巻き込み、自らを弁明したいと思っているのです(故多有虚引冀以自明)。」
明帝が問いました「そうだとしたら、なぜ早く上奏しなかった?」
朗が答えました「臣は海内で別にその姦を告発する者がいることを恐れたのです(耿建等に確かに罪があって、それを告発する者がいるかもしれないと恐れたので様子を見たのです。原文「臣恐海内別有發其姦者」)。」
明帝は「吏が両端を持っている(罪人をかばおうとした。二心を抱いている。原文「吏持両端」)!」と言い、速く連れ出して殴打するように命じました(促提下捶之)
左右の者が朗を引いて連れて行こうとすると、朗が言いました「一言してから死ぬことを願います。」
明帝が問いました「誰が共に章(顔忠と王平の無罪を訴える上奏文)を為したのだ?」
朗が答えました「臣が独りで作りました。」
明帝が問いました「なぜ三府(『資治通鑑』胡三省注によると、太尉、司徒、司空府を指します)と議さなかったのだ?」
朗が答えました「臣は自分が必ず族滅に当たると知っているので、巻き込む人を多くできなかったのです(不敢多汙染人)。」
明帝が問いました「なぜ族滅されるのだ?」
朗が答えました「臣は考事(考察。調査)して一年経ちますが、姦状を追及できず不能窮尽姦状)、逆に罪人のために冤罪を訴えました。だから族滅に当たると知っているのです。しかし臣が進言するのは、誠に陛下による一覚悟(覚醒)を望んでいるからに過ぎません。臣がこの案件において囚人を審問している者を見るに(臣見考囚在事者)、皆が共に『妖悪大故(「大故」は「大事件」「大犯罪」の意味です)は臣子が共に憎むことであり(所宜同疾)、今はこれを出すより入れた方がいい(無罪として釈放するよりも有罪として牢に入れた方がいい)、そうすれば後責(後々の譴責)をなくすことができる』と言っています。そのため、一人を審問したら十人が連座し、十人を審問したら百人が連座しています(考一連十,考十連百)。また、公卿が朝会に参加して、陛下が得失を問うた時、皆、長く跪いて『旧制では、大罪の禍は九族に及びました。陛下は大恩によってその身だけに留めています(罪を犯した者だけが刑を受けています。原文「裁止於身」)。天下の幸甚です』と言っていますが、舍(家)に帰ると口には出さないものの屋根を仰ぎ見て秘かに嘆息しており(仰屋竊歎)、多くの囚人が冤罪だということを知らない者はおらず、しかし敢えて陛下の言に逆おうとする者もいません(無敢牾陛下言者)。臣は今これらを述べたので、誠に死んでも悔いがありません(今所陳誠死無悔)。」
明帝は朗の意見を理解し(または「怒りを解き」。原文「意解」)、詔によって朗を退出させました。
 
二日後、車駕(明帝)が洛陽獄を訪ねて囚徒を審問記録し、冤罪の者を整理して千余人を獄から出しました。
当時は天旱(旱害)でしたが、すぐに大雨が降りました。
 
馬后も楚獄(楚王事件)の多くが事実に符合していない(多濫)と思っていたため、機会を見つけて明帝に進言しました。明帝は悲しんで過ちを悟り(惻然感悟)、夜に起き上がって彷徨しました(不安なため歩きまわりました)
この後、多くの者が刑を減らされて赦されました(多所降宥)
 
任城令汝南の人袁安が楚郡太守に遷りました。
袁安は郡に到着しても官府に入らず、まず、楚王劉英の獄事を処理しに行きました。確かな証拠がない者を整理し、一人一人朝廷に報告したうえで釈放しようとします(條上出之)
府丞や掾史が皆、叩頭して反対し、「反虜に阿附(迎合)したら、法において同罪になるので、いけません(不可)」と言いました。
しかし袁安は「もしも相応しくないことがあるのなら(如有不合)、太守自身がこれに坐すものだ。(汝等に)及ぼすことはない」と言って、釈放する者をそれぞれ詳しく上奏しました。
明帝は感悟(覚醒)してすぐに同意の返答を送ります。袁安のおかげで釈放された者は四百余家いました。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏五月、故広陵劉荊(明帝の同母弟。明帝永平十年67年に自殺しました)の子劉元寿を広陵侯に封じ、食邑を六県にしました。
また、竇融の孫竇嘉を安豊侯に封じました(明帝永平五年62年参照)
 
資治通鑑』胡三省注によると、劉元寿を封じたのは兄弟の恩情を厚くするため、竇嘉を封じたのは功臣の世系を念じたためです。
 
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明帝が寿陵(陵墓)の建設を開始しました。
明帝が制(皇帝の命令)を発しました「(陵墓の周りは)水を流すだけで、石椁(石棺。中に木棺を入れます)は一丈二尺、長さ二丈五尺とし、(墳丘)を起こしてはならない。万年の後崩御後)は地を掃いて祭り、杅水(一杯の水)と脯糒(干肉、干飯)だけあればよい。百日を過ぎたら、四時(四季)の祭祀だけを設けよ(唯四時設奠)。配置する吏卒は数人とし、掃除を担当せよ(供給灑掃)。道を造ってはならない勿開修道)敢えて興作(大規模な建造)しようとする者がいたら、勝手に宗廟を議した者に対する法(「擅議宗廟法」。西漢時代に作られた法で、宗廟に関して勝手に議論したり非難した者は棄市に処されました。西漢成帝河平元年28年参照)で裁くことにする(以擅議宗廟法従事)。」
 
 
 
次回に続きます。