東漢時代87 明帝(十六) 皇子封王 72年

今回は東漢明帝永平十五年です。
 
東漢明帝永平十五年
壬申 72
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
春二月庚子(初四日)、明帝が東巡しました。
 
辛丑(初五日)、明帝が偃師を行幸しました。
詔を発し、亡命(逃亡)している殊死(死罪)以下の者に贖罪の機会を与えました。死罪は縑(絹の一種)四十匹、右趾から髠鉗城旦舂は十匹、完城旦から司寇は五匹を納めさせます(それぞれの刑については光武帝中元二年57年に書きました)
犯罪がまだ発覚しておらず、詔書が到った日に自告(自主)した者は半数を納めさせました(半入贖)
 
明帝は沛王劉輔と睢陽で会してから、彭城に進みました。
 
癸亥(二十七日)、明帝が下邳で田地を耕しました。
資治通鑑』胡三省注によると、下邳県は東海郡に属していましたが、この年、臨淮郡を下邳国にして下邳県を属させました。下の記述で劉衍が下邳王に封じられます。
 
三月、明帝が琅邪王劉京を招いて良成(『顕宗孝明帝紀』の注によると東海郡に属す県です)で会見し、東平王劉蒼を招いて陽都(『顕宗孝明帝紀』の注によると琅邪郡に属す県です)で会見し、広陵劉元寿(前年参照)およびその三弟を招いて魯で会見しました。
 
その後、東海恭王陵(劉彊の陵墓)を祀り、戻って孔子宅を訪ねました。仲尼(孔子)および七十二人の弟子を祀ってから、自ら講堂に登り(親御講堂)、皇太子や諸王に命じて経を説かせます。
資治通鑑』胡三省注によると、孔子宅は闕里(地名)にあります。講堂は講授(講義授業)の堂です。
 
明帝は更に東平(王国)行幸しました。
辛卯、大梁に進み、定陶に至って定陶恭王陵を祀りました。
定陶恭王は西漢元帝の子劉康です。
 
夏四月庚子(初五日)、車駕が皇宮に還りました。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と資治通鑑』からです。
明帝が信都郡を楽成国に、臨淮郡を下邳国に改め、皇子劉恭を鉅鹿王、劉党を楽成王に、劉衍を下邳王に、劉暢を汝南王に、劉昞を常山王に、劉長を済陰王に封じました。
明帝が自ら封域を制定し、封国の面積を楚国や淮陽国の半分にしました。
楚王は劉英で前年自殺しました。淮陽王は劉延です。どちらも光武帝の子、明帝の兄弟です。
 
馬后が言いました「諸子に数県しか封じないのは、制度に較べて少なすぎるのではありませんか(諸子数県,於制不亦倹乎)?」
明帝が言いました「我が子をどうして先帝の子と等しくするべきなのだ(先帝の子と等しくはできない。原文「我子豈宜与先帝子等」)。毎年二千万銭を与えれば充分だ(歳給二千万足矣)。」
 
明帝が天下の男子に一人当たり爵三級を下賜し、郎と従官で(着任して)二十歳(年)以上の者に帛百匹を、十歳(年)以上の者に二十匹を、十歳(年)以下の者に十匹を、官府の吏に五匹を、書佐小史に三匹を与えました。
また、天下に五日間の大酺(酒宴)を命じました。
 
乙巳(初十日)、天下に大赦しました。
謀反大逆および寛恕に応じるべきではない者大赦に該当するべきではない者。原文「諸不応宥者」)も全て赦免しました。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』からです。
冬、車騎が上林苑で校猟(狩猟)をしました。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
謁者僕射耿秉がしばしば上書して匈奴攻撃を請いました。
資治通鑑』胡三省注によると、謁者僕射は秩比千石で、謁者の長官です。
 
顕親侯竇固がかつて世父(伯父)竇融に従って河西におり、辺境の事に習熟していたため、明帝は耿秉と竇固に命じて太僕祭肜、虎賁中郎将馬廖、下博侯劉張(『後漢書宗室四王三侯列伝(巻十四)』によると、劉張は斉王劉縯の孫です。劉縯の子劉章が斉王になり、その後は煬王劉石が継ぎました。劉張は劉石の弟に当たります)、好畤侯耿忠等と共に匈奴討伐を議論させました。
 
耿秉が言いました「昔、匈奴は引弓の類(弓が得意な者)を引き入れ(援引弓之類)、左衽の属(「左衽」は向かって左襟が上になる服で、異民族の服装です)を併せたので(并左衽之属)、制することができませんでした(不可得而制)。しかし孝武西漢武帝が河西四郡および居延、朔方を得てから、虜匈奴は肥饒畜兵の地(肥沃で兵馬を養う地)を失い、羌と胡匈奴が分離し、西域だけを有しましたが(西域だけが匈奴支配下にありましたが)、それも暫くしてまた内属しました。そのため呼韓邪単于が塞を敲いて事を請い(塞を訪ねて内属を請い。原文「請事款塞」)(漢が)乗じやすい形勢になりました(其勢易乗也)。今は南単于がおり、形勢が似ています。しかし西域はまだ内属しておらず、北虜もまだ釁作(内争)していません。臣の愚見によるなら、先に白山を打ち、伊吾を得て、車師を破り、烏孫諸国と使者を通じてその右臂(右腕)を断つべきです。伊吾にも匈奴南呼衍の一部(一軍)があり、これを破ればまたその左角を折ったことになります(復為折其左角)。その後なら匈奴を撃つことができます。」
 
資治通鑑』胡三省注によると、文中の「白山」は冬も夏も雪があったため白山と呼ばれました。匈奴では「天山」と呼んでおり、通る時には皆、馬を下りて拝しました。別名を「祁連山」「雪山」といいます。
「伊吾」は「伊吾盧地」で、当時は匈奴に属していましたが、翌年、漢がこの地を取って宜禾都尉を置き、屯田を始めます。
 
明帝は耿秉の意見を称賛しました。
議者のある者が言いました「今、兵を白山に出したら、匈奴が必ず兵を併せて助けます。(兵を)東にも分けてその衆を離すべきです(我々は同時に東にも兵を出して匈奴の兵を分散させるべきです。原文「又当分其東以離其衆」)。」
明帝はこの意見に従いました。
 
十二月、耿秉を駙馬都尉に、竇固を奉車都尉に任命しました。
騎都尉秦彭を耿秉の副(副将)に、耿忠を竇固の副にし、それぞれ従事、司馬を置きます。
東漢軍は京師を出発して涼州に駐軍しました。
耿秉は耿国(耿況の子、耿弇の弟)の子、耿忠は耿弇の子、馬廖は馬援の子です。
 
『顕宗孝明帝紀』の注によると、奉車都尉は乗輿(皇帝の車)を管理し、駙馬都尉は天子の副馬を管理しました。どちらも西漢武帝が置いた官で、秩二千石です。
 
 
 
次回に続きます。