東漢時代88 明帝(十七) 班超 73年(1)

今回は東漢明帝永平十六年です。二回に分けます。
 
東漢明帝永平十六年
癸酉 73
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
春二月、明帝が四路から北匈奴に兵を向けました。
太僕祭肜と度遼将軍呉棠(『資治通鑑』胡三省注によると、「呉常」と書くこともあります)は河東西河の羌胡および南単于の兵一万一千騎を率い、高闕塞(『資治通鑑』胡三省注によると、朔方の北にあります)から出撃します。
奉車都尉竇固と好畤侯耿忠は酒泉敦煌張掖の甲卒及び盧水の羌胡の兵一万二千騎を率いて酒泉塞から出撃します。
駙馬都尉耿秉と騎都尉秦彭は武威隴西天水の募士および羌胡の兵一万騎を率いて張掖居延塞から出撃します。
騎都尉来苗、護烏桓校尉文穆は太原雁門代郡上谷漁陽右北平定襄の郡兵および烏桓鮮卑の兵一万一千騎を率いて平城塞から出撃します
 
竇固と耿忠は天山に至り、北匈奴の呼衍王を撃って千余級を斬首しました。竇固等は蒲類海まで追撃して伊吾盧地を取ります。
東漢はこの地に宜禾都尉を置き、吏士を留めて伊吾盧城で屯田を始めました。
 
後漢書・顕宗孝明帝紀』は他の三路について「耿秉、来苗、祭肜は功を立てることなく還った」と書いています。
以下、『資治通鑑』から詳しく書きます。
 
耿秉と秦彭は匈林王(『資治通鑑』胡三省注は「匈林」を「恐らく『句林』の誤り」としています。光武帝建武年間、匈奴が盧芳を迎え入れるために句林王を派遣したことがありました)を撃ち、沙漠を六百余里にわたって横断しました。三木楼に至って還ります。
 
来苗と文穆は匈河水の辺に至りましたが、北匈奴が全て奔走していたため、獲るものがありませんでした。
 
祭肜は南匈奴左賢王信との関係がうまくいきませんでした(不相得)。高闕塞を出て九百余里進み、小山を得た時、左賢王信が祭肜を騙して「ここが涿邪山だ」と言いました。
周辺に北匈奴がいなかったため、祭肜は兵を還しました。
 
祭肜と呉棠は逗留畏懦(敵を恐れて戦おうとしなかった罪)に坐して獄に下され、罷免されました。
祭肜は自分が功を立てられなかったことを恨み、獄から出て数日後に血を吐いて死にました。
臨終の時、自分の子にこう言いました「わしは国の厚恩を蒙りながら、使命を受けたのに全うできなかった(奉使不称)。この身が死んでも誠に慚愧悔恨している(身死誠慚恨)。義において功がないのに賞を受けることはできない。(わしの)死後、汝は(わしが)得た物(今までに与えられた賞賜)を全て記録して(陛下に)返上し(若悉簿上所得物)、その身は自ら兵屯(兵営)を訪ね、命をかけて前進し、わしの心意にそうようにせよ(效死前行以副吾心)。」
祭肜の死後、子の祭逢が上書して遺言について詳しく述べました。
明帝はかねてから祭肜を重んじており、改めて任用しようと思っていたため、祭逢の報告を聞いて大いに驚き、久しく嘆息しました(嗟嘆良久)
 
この後、烏桓鮮卑は京師に朝賀に来るたびに、いつも祭肜の冢(墓)を通って拝謁し、天を仰いで号泣しました。
遼東の吏民は祭肜のために祠を建てて四時(四季)に祭祀を行うようになりました。
資治通鑑』胡三省注は「祭肜はかつて遼東太守を勤め、威信が烏桓鮮卑に及んでいた」と解説しています。
 
竇固だけが功を立てたので、特進の位が加えられました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
竇固が假司馬班超と従事郭恂を共に使者にして西域に派遣しました。
班超は班彪の子で、『漢書』を編纂した班固の弟に当たります。
尚、班固には班昭という妹もいました。
班固が『漢書』の「八表」と「天文志」を完成させる前に死んでしまったため、後に東漢和帝が詔を発して班昭に完成させました。班昭の伝は『後漢書列女伝(巻八十四)』に記載されています。
資治通鑑』胡三省注によると、大将軍営には五部があり、部には校尉一人と軍司馬一人がいました。また、軍假司馬がいて補佐しました。
 
班超が鄯善に到着したばかりの時は、鄯善王広が班超をもてなして礼敬が備わっていました。しかし後に突然態度を変えて班超等への対応を疎かにするようになりました。
班超が官属に問いました「広の礼意が薄くなったと思わないか(寧覚広礼意薄乎)?」
官属が言いました「胡人は常久にできません(態度や考えを一定にできません。原文「胡人不能常久」)。他に理由があるわけではありません(無他故也)。」
しかし班超はこう言いました「これは北虜北匈奴の使者が来て、(鄯善王が)狐疑(躊躇)して従うところを知らないからに違いない(漢と匈奴のどちらに従えばいいか分からず、躊躇しているからに違いない)。明者(英明な者)とは芽生えていないことを見るものだ(明者睹未萌)。既に表れていることならなおさらである(況已著邪)。」
班超は侍胡(胡人の侍者。鄯善が手配した班超に侍らせている者です)を招き、偽ってこう言いました「匈奴の使者が来て数日になるが、今はどこにいる(または「匈奴の使者が来て何日になり、今どこにいる」。原文「匈奴使来数日,今安在乎」)。」
侍胡が恐れ慌てて言いました「到着してから既に三日になり、ここから三十里離れた場所にいます。」
班超は侍胡を拘束してから全ての吏士三十六人を集めて共に酒を飲みました。
酒がまわった頃(酒酣)、班超が吏士を発憤させるために言いました(因激怒之曰)「卿曹(卿等)とわしは共に絶域にいる。今、虜使が来て数日経ったばかりなのに、王広の礼敬がすぐに廃れた。もし匈奴の使者が)鄯善に吾属(我々)を捕えて匈奴に送らせたら、(我々の)骸骨は長く豺狼の食(餌)になってしまうだろう。どうするべきだ(為之柰何)。」
官属が皆言いました「今は危亡の地にいます。死生は司馬(假司馬班超)に従います。」
班超が言いました「虎の穴に入らなかったら虎の子を得ることはできない(不入虎穴,不得虎子)。今採るべき計は、夜に乗じて火で虜を攻めるだけだ。彼等に我々の人数を分からないようにさせれば(使彼不知我多少)、必ず大いに震怖(震撼)させて殄尽(殲滅)することができる。この虜を滅ぼせば鄯善も肝を潰し(破膽)、功を成して大事を立てられる(功成事立)。」
官属達が言いました「従事(郭恂)と議すべきです。」
班超が怒って言いました「吉凶は今日に決められる。従事は文俗の吏なので、これを聞いたら必ず恐れて謀が泄れるだろう。死んでも名とするところがないのは(死んでも名声がないのは。誰にも知られないのは。無駄死にするのは)、壮士ではない(死無所名,非壮士也)。」
官属達は「善(素晴らしい。その通りです)」と言いました。
 
初夜(甲夜。初更。夜七時から九時)、班超が吏士を率いて北匈奴の営に走りました。
ちょうど大風が吹きます。
班超は十人に鼓を持って北匈奴の舍(館舎。帳房)の後ろに隠れさせ、「火が燃えるのを見たら、皆、鼓を鳴らして大呼せよ」と指示しました。
他の者は皆、兵弩を持ち、門を挟んで埋伏します。
班超が風を利用して火を放つと、前後で鼓噪(鼓の音と喚声)が上がりました。北匈奴の衆が驚乱します。
班超は自らの手で三人を格殺(撃殺)し、吏兵も北匈奴の使者と従士三十余級を斬りました。
残りの約百人は全て焼死しました。
 
翌日、班超が還って郭恂に報告しました。
郭恂は大いに驚いてから顔色を変えました(既而色動)
班超は郭恂の意図を知り、手を挙げてこう言いました「掾(従事)は行きませんでしたが、班超(私)がどうして(功績の)独占を欲するでしょう(班超何心独擅之乎)。」
郭恂はやっと喜びました。
 
班超は鄯善王広を招いて北匈奴の使者の首を示しました。鄯善一国が震え怖れます。
班超は漢の威徳を告げて「今から後は、再び北虜と通じてはならない」と言いました。
鄯善王広は叩頭して「漢に属すことを願います。二心はありません」と応え、子を漢に入れて人質にしました。
 
班超が帰国して竇固に報告すると、竇固は大いに喜んで明帝に班超の功効(功労)を詳しく上奏し、併せて再び使者を選んで西域に派遣するように求めました。
明帝が言いました「班超のような吏がいるのに、どうして(彼を)派遣せず改めて選ぶのだ(吏如班超何故不遣而更選乎)。今、班超を軍司馬とし、前功を完遂させる。」
 
竇固が再び班超を使者にして于に派遣しました。
竇固が班超の兵を増やそうとしましたが、班超は元から従っている三十六人だけ率いることを願い、こう言いました「于は国が大きくて遠いので、今、数百人を率いたとしても、強において益がありません(数百人を率いても武力では于にかないません。原文「無益於強」)。また、もしも不虞(不測の事態)があったら、増やしたことが足手まといになります(多益為累耳)。」
 
当時、于広徳は南道で雄張(旺盛)でしたが、匈奴が使者を送って監護していました。
班超が于に到着しても、広徳は礼意を疎かにします。
 
の俗は巫を信じていました。
巫が言いました「神が怒っている。なぜ漢に向く(従う)ことを欲するのだ。漢使には騧馬(全体は黄色で口の周りだけが黒い馬)がいる。急いで求め取ってわしを祀れ(急求取以祠我)。」
広徳は国相私来比を派遣して班超に馬を請いました。
班超は秘かに事情を知り、馬を譲る同意をしましたが、巫に自ら馬を取りに来させました。
 
暫くして巫が来ました。すると班超はすぐに巫を斬り、私来比を逮捕して鞭笞で数百回打ちました。
その後、巫の首を広徳に送って譴責します。
広徳は班超が鄯善で北匈奴の使者を誅滅したことを聞いていたため、大いに慌て恐れ、匈奴の使者を殺して漢に降りました。
班超は王以下の者に厚い賞賜を与えて鎮撫しました。
 
これを機に西域諸国が全て子を送って東漢に入侍させるようになりました。西域と漢の関係が途絶えて六十五年が経過し、ここに至って交流を回復します。
資治通鑑』胡三省注はこう解説しています「王莽天鳳三年16年)、焉耆が王駿を殺してから西域との関係が絶たれた。本年(明帝永平十六年73年)で五十八年(足掛け)になる。ここで『六十五年』といっているのは、始建国元年9年)から数えての年数のはずだ。王莽が帝位を簒奪したため漢と西域の関係が絶たれていた。」
 
 
 
次回に続きます。