東漢時代91 明帝(二十) 瑞祥 74年(2)

今回は東漢明帝永平十七年の続きです。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
この年、甘露が頻繁に降り、樹枝が内附(木の枝が外に伸びず、一つになること。または、根が異なる樹木の枝が巻きついて一つになること。和睦を表します)し、殿前に芝草(霊芝)が生え、五色の神雀がはばたいて京師に集まりました。
西南夷の哀牢、儋耳、僥、槃木、白狼、動黏といった諸種(諸族)が漢の義に慕って次々に貢献(進貢)し、西域諸国も子を送って入侍させました。
 
『顕宗孝明帝紀』の注によると、僥は周僥国ともいい、三首国の東にあります。この地の人は身長が三尺しかなく、最も背が低い国でした。冠帯(冠と帯)を身に着けています(中原と同じ服装です)
 
公卿百官は明帝の威徳が遠方を懐柔し、祥物(瑞祥)が明らかに感応したと考えました。
夏五月戊子(初五日)、公卿百官が朝堂に集まり、杯を挙げて明帝を祝賀しました(原文「奉觴上寿」。『資治通鑑』胡三省注によると、人は誰でも長寿を欲するので、地位が低い者が酒を勧める時はいつも長寿を祈りました。「上寿」は長寿を祈るという意味ですが、目上の人に酒を勧めるという意味でも使われるようになりました)
明帝が制(皇帝の命令)を発しました「天は神物を生んで王者に応じさせる。遠人の慕化(敬慕帰順)は実に徳があるからである。朕は虚薄(な徳)をもってどうしてこれを享受できるだろう。ただ高祖と光武の聖徳に被われている(覆われている)だけであり、何かを語ることはできない(不敢有辞)。ここに敬って觴(杯)を挙げる。太常は吉日を選んで宗廟に策告(策書で報告すること)せよ。
天下の男子一人当たりに二級の爵を、三老孝悌力田には一人当たり三級を、流人(流亡の人)で名数(名簿戸籍)がなくても名乗り出て籍を欲した者(流人無名数欲占者)には一人当たり一級を下賜する。鰥寡(配偶者を失った男女)孤独(孤児や身寄りがない老人)𤸇(重病の者)貧しくて自存できない者には一人当たり三斛の粟を、郎従官で着任して十年以上経つ者(視事十歳以上者)には帛十匹を与える。中二千石二千石以下、黄綬(『後漢書輿車志下』によると、四百石、三百石、二百石が黄綬を持ちます)を佩しており、秩を減らして贖罪した者は(貶秩奉贖)、去年以来の贖罪した金を全て返却する(在去年以来皆還贖)。」
こうして明帝は恩徳を推し広め、民爵や粟をそれぞれ差をつけて吏民に下賜しました。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀からです。
秋八月丙寅、武威、張掖、酒泉、敦煌および張掖属国に命じ、右趾(右脚を切断する刑)以下の囚人(繫囚右趾已下)で兵役に堪えられる者は、全て一切の罪を裁かず、軍営に送らせました。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀と『資治通鑑』からです。
冬十一月、明帝が奉車都尉竇固、駙馬都尉耿秉、騎都尉劉張を派遣し、敦煌昆侖塞から出て西域を撃たせました。
資治通鑑』胡三省注によると、昆侖は山の名で、山地を利用して要塞が築かれました。かつて西周穆王がこの山で西王母に会ったといわれており、石室と王母台があります。
また、敦煌郡広至県に昆侖障にあり、宜禾都尉が置かれていたともいいます。
 
耿秉と劉張は符と伝を手放して竇固に属させました。
資治通鑑』胡三省注によると、「符」は兵符で、兵の指揮権を示します。「伝」は通常、関所等の通行書を指しますが、ここでは兵を指揮する時の信(証明書)のようです。
耿秉と劉張は兵権を竇固に譲るために自ら符と伝を手放しました。
 
漢軍は一万四千騎を集結させて白山虜(白山の匈奴兵)を蒲類海の辺で撃破し、車師まで進撃しました。
 
車師には前王と後王がおり、前王は後王の子で、両国の朝廷は五百余里離れていました。
資治通鑑』胡三省注によると、車師前王は交河城に、後王は務塗谷にいます。
 
竇固は後王への道が遠くて山谷も深く、しかも士卒が寒冷に苦しんでいるため、まず前王を攻めようと欲しました。
しかし耿秉は先に後王の国に向かい、敵の根本に対して尽力すれば(并力根本)、前王は自ら服すと考えました。
竇固の計が決まらないうちに、耿秉が身を奮わせて起ち上がり、「前に行かせてください(請行前)」と言いました。
耿秉は馬に乗ると兵を率いて北に向かいます。
衆軍もやむなく並進し、後王の軍と戦って数千級を斬首しました。
 
後王安得は震え怖れ、走って門を出て耿秉を迎え入れました。帽(冠。帽子)を脱ぎ、馬の足に抱きついて投降します。
耿秉は安得を連れて竇固を訪ねました。
 
果たして、前王も帰順しました。竇固等は車師を平定して還りました。
 
竇固が再び西域都護および戊己校尉を置くことを上奏し(『資治通鑑』胡三省注に解説があります。西漢宣帝が西域都護を置き、元帝が戊己校尉を置きましたが、王莽の乱によって西域と中国の関係が途絶えたため、これらの官も任命されなくなっていました。今回また西域と通じたので、改めて設置しました)、明帝は陳睦(『資治通鑑』胡三省注によると、「陳穆」と書くこともあります)を西域都護に、司馬耿恭を戊校尉に任命して、後王部の金蒲城(『資治通鑑』胡三省注によると、車師後王が治めていた務塗谷です)に駐屯させました。
耿恭は耿況の孫です。
 
また、謁者関寵を己校尉に任命し、前王部の柳中城(『資治通鑑』胡三省注によると「折中城」と書くこともあります)に駐屯させました。
それぞれの駐屯地には数百人が置かれます。

[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀からです。
この年、天水を漢陽郡に改めました。
 
 
 
次回に続きます。