東漢時代93 明帝(二十二) 西域救援 75年(2)
今回は東漢明帝永平十八年の続きです。
八月壬子(初六日。明帝が死んだ日です)、太子・劉炟が即位しました。これを章帝といいます。
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章帝が馬皇后を尊んで皇太后にしました。
明帝が死んだばかりの時、馬氏兄弟が争って入宮しようとしましたが、北宮の衛士令・楊仁が甲冑を着て戟を持ち、厳しく門衛を指揮したため、軽率に入ろうとする者がいなくなりました。
馬氏兄弟は楊仁が峻刻(厳酷すぎること)であると言って誣告しました。しかし章帝は楊仁の忠を知っていたため、ますます厚く遇して什邡令に任命しました。
また、北宮には員吏七十二人、衛士四百七十一人がいました。
南掖門は朱爵司馬が管理し、員吏四人、衛士百二十四人を指揮しています。東門は東明司馬が管理し、員吏十三人、衛士百八十人を指揮しています。北門は朔平司馬が管理し、員吏五人、衛士百十七人を指揮しています。員吏は全て隊長の佐(補佐)です。
外に住む者が用があって宮内に入る場合は、本宮の長史(該当する宮殿の官員)が棨伝(木製の符信。通行証)に封をして渡しました(宮長史為封棨伝)。
官位がある者は、出入りの際、御者に命じてその官(宮殿の官員)に伝えさせました(出入令御者言其官)。
壬戌(十六日)、孝明皇帝を顕節陵に埋葬しました。
民に一人当たり二級の爵を、父の後を継ぐ立場にいる者および孝悌、力田には一人当たり三級を、名数(名簿。戸籍)がない者および流人で名乗り出て籍を欲した者(脱無名数及欲占者)には一人当たり一級を下賜しました。
鰥寡(配偶者を失った男女)、孤独(孤児や身寄りがない老人)、篤𤸇(重病の者)、貧困のため自存できない者には一人当たり三斛の粟を与えました。
章帝が詔を発しました「朕は眇身(微小な身)によって王侯の上に託され、万機(各種の重要な政務)を統理(統括)することになったが、中(中正。中庸)を失うことを懼れて兢兢業業(戦戦兢兢)とし、まだ済むところ(成就させる方法)を知らない(未知所済)。深く守文の主(文徳を守る主としてあるべき姿)を思うと、師傅の官を建てる必要がある。『詩(大雅・假楽)』はこう言っているではないか『過ちも遺漏もない。旧章(旧制)を遵守して用いる(不愆不忘,率由旧章)』。行太尉事(太尉代行)・節郷侯・趙憙は三世にわたって位におり、国の元老になった(『顕宗孝明帝紀』の注によると、趙憙は光武帝時代に太尉になり、明帝時代に行太尉事になりました。章帝で三代になります)。司空・牟融は典職(政務を行うこと。政事を管理すること)して六年になり、勤労で怠らなかった。よって趙憙を太傅に、牟融を太尉に任命し、併せて録尚書事にする。『三事大夫(三公)が朝早くや夜晩くには尽力しようとしない(原文「三事大夫,莫肯夙夜」。『詩経・小雅・雨無正』の一節です)』、これは『小雅』が痛む(嫌う)ところである。『予が道に違えたら汝等が助けよ。汝等は面従してはならない(原文「予違汝弼,汝無面従」。『尚書・益稷』の言葉です)』。これは股肱の正義である。群后(諸侯・公卿)百僚は勉めてその職を思い、それぞれ忠誠を貢いで(捧げて)不逮(不足していること)を輔佐せよ。四方に申勑(誡告。勅命)し、朕の意にそわせよ(称朕意焉)。」
十一月戊戌(二十四日)、蜀郡太守・第五倫(第五が氏です)を司空に任命しました。
第五倫は蜀郡で公清な政治を行い、推挙した官吏の多くが立派な人材だったため(所挙吏多得其人)、章帝が遠郡から招いて朝廷で用いることにしました。
焉耆と亀茲が西域都護・陳睦を攻めて殺しました。
『後漢書・西域伝(巻八十八)』には「焉耆と亀茲が共に都護・陳睦と副校尉・郭恂を攻没し、吏士二千余人を殺した(焉耆與亀茲共攻没都護陳睦、副校尉郭恂,殺吏士二千余人)」とあり、「陳睦と郭恂を攻略した」ではなく、「陳睦と郭恂を攻めて殺した」と読んだ方が意味が通ります。
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北匈奴が柳中城で関寵を包囲しました。
耿恭は士衆を率いて激励し、匈奴と車師を防ぎました。
数カ月後、耿恭軍の食糧が尽きて窮困しました。鎧や弩を煮てその筋革(動物の筋や皮が使われています)を食べるようになります。
耿恭が誠心誠意、士卒と向き合い、死生を共にしたため(推誠同死生)、二心を抱く者はいませんでした。
しかし死者は徐々に増えていき、残った兵はわずか数十人になります。
単于は耿恭が困窮していると知り、必ず投降させたいと欲しました。
そこで使者を送って耿恭を招き、こう伝えます「もし投降するなら白屋王に封じて女子を妻にさせよう。」
『資治通鑑』胡三省注によると、白屋は五狄の一種です。
耿恭は使者を誘って城壁を登らせると、自らの手で撃殺し、城壁の上で焼きました(炙諸城上)。
単于は激怒して包囲の兵を増やしましたが、攻略できませんでした。
関寵が上書して救援を求めました。
章帝は詔を発して公卿に議論させます。
司空・第五倫が援けるべきではないと主張しましたが、司徒・鮑昱がこう言いました「今、人を危難の地に置いておきながら、危急に臨んでこれを棄てたら(急而棄之)、外は蛮夷の暴をほしいままにさせ、内は死難の臣(命を棄てられる忠臣)を傷つけることになります(外則縦蛮夷之暴,内則傷死難之臣)。時勢に応じて目先の策を採るのは、この後、辺境の事がないのなら可です(この後、辺境で異変がないのなら、時勢に応じて援軍を送らなくても問題ありません。原文「誠令権時後無辺事可也。」「誠令」は「もしも」、「権時」は「暫時」「臨時」の意味です)。しかし匈奴がもし再び塞を犯して寇を為したら(侵略したら)、陛下はどうやって将を使うのですか(将何以使将)。また、二部(関寵と耿恭)の兵人(兵数)はそれぞれ数十しかいないのに、匈奴は彼等を包囲して歴旬しても(一旬を経ても。長い時間が経っても)下せません。これは彼等が寡弱で力尽きている效(証明。証拠)です。敦煌、酒泉太守にそれぞれ精騎二千を指揮させ、幡幟を多くし、倍道兼行して(通常の倍の速度で兼行して)危急に赴かせるべきです。匈奴の疲極した兵(疲労が極まった兵)は必ず当たることができず、四十日あれば(関寵等を)帰還させて塞に入れるに足ります。」
章帝はこの意見に納得しました。
そこで章帝は詔を発し、征西将軍・耿秉を派遣して酒泉に駐屯させ、太守の政務を代行させました(行太守事)。
同時に酒泉太守・段彭(『後漢書・耿弇列伝(巻十九)』では「秦彭」ですが、『後漢書・粛宗孝章帝紀』では「段彭」です。『資治通鑑』は「本紀」に従っています)を派遣し、謁者・王蒙、皇甫援(『資治通鑑』胡三省注によると、宋の公族に皇甫充石がいました。漢初には皇父鸞がおり、魯から茂陵に移住しました。皇父鸞が「父」を「甫」に改めて「皇甫」を氏にしました。また、西周には皇父という卿士がいました)と共に張掖、酒泉、敦煌三郡および鄯善の兵合計七千余人を動員して関寵と耿恭の救援に向かわせました。
次回に続きます。