東漢時代94 明帝(二十三) 外戚馬氏 75年(3)

今回で東漢明帝永平十八年が終わります。
 
[十四] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。
甲辰晦、日食がありました。
章帝は正殿を避けて生活し、兵事を中止して兵)、五日間聴政しませんでした(謹慎しました)
また、詔を発して有司(官員)にそれぞれ封事(密封した上書)を提出させました(政治の過失を指摘させました)
 
[十五] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』からです。
十二月癸巳、有司(官員)が上奏しました「孝明皇帝は聖徳が淳茂(純朴盛大)で、日が傾くまで労苦し(劬労日𣅳、身は浣衣(何回も洗った衣服。古い服)を御し(着て)、食事には珍味を兼ねませんでした(二種類以上の珍味がありませんでした。原文「食無兼珍」)。恩沢が四表(四方)に至り(沢臻四表)、遠人が慕化(慕って教化を受けること)し、僥、儋耳も塞を訪ねて自ら至りました(款塞自至)。鬼方(商周時代に西方にいた少数民族です。ここでは恐らく北匈奴を指します。但し、『粛宗孝章帝紀』の注は「鬼方」を「遠方の意味」と解説しています)を克伐(討伐)し、西域の道を開き、威霊が広くを被い(覆い)、不服を思う者はいませんでした服従を願わない者はいませんでした。原文「無思不服」)。烝庶(庶民)を憂いとし、天下を楽としませんでした(民衆の生活を思って憂い、天下を治めていることを快楽としませんでした。原文「以烝庶為憂,不以天下為楽」)。三雍(辟雍、明堂、霊台)の教えを備え(完備し)、自ら養老の礼を行いました(躬養老之礼)。登歌(祭典の際、堂上で歌う歌)を作り、予楽(祭祀の音楽)を正し、六芸(『粛宗孝章帝紀』の注によると、「礼数」または「礼記楽経春秋経易経詩経書経」を指します)に博貫(精通)し、昼夜も休みませんでした(不舍昼夜)。聡明かつ淵塞(深遠誠実)で図讖に著されました(『粛宗孝章帝紀』の注によると、『河図』に「図が代(地名)に出る。九天で開明し、益を受けて後嗣が興り、十代が光とする(図出代,九天開明,受用嗣興,十代以光)」とあり、『括地象』に「十代で礼楽、文雅が並出する(十代礼楽,文雅並出)」とありました。第九代漢帝が光武帝なので、十代は明帝になります。図讖の文は理解が困難ですが、明帝が天命を受けたことを表しています。至徳(盛徳)(天に)感応するところとなり、神明に通じ(至徳所感,通於神明)、功烈(功勲行跡)が四海に光り、仁風が千載(千年)に行われることになりました。しかし深く謙譲の姿勢を採り(深執謙謙)、自ら不徳と称し、(寝廟)を起こすことなく、地を掃いて祭るだけとし(埽地而祭)、日祀の法を除き(『粛宗孝章帝紀』の注によると、祭祀には「日祭(日祀)」「月祀」「時享」の三種類があり、祖禰(祖父と父の廟)は日祭(日々の祭祀)を行い、高曾(高祖と曾祖父の廟。高祖は曾祖父の父です)は月祀(月ごとの祭祀)を行い、三祧(七廟のうち三人の遠祖廟)は時享(四季ごとの祭祀)を行いました。明帝は日祀の制度を廃して時月(四季と毎月)の祭祀で一緒に祀ることにしました)、送終の礼(葬礼)を省き、主(牌位)を光烈皇后の更衣別室にしまわせました。天下でこれを聞いて悽愴(悲傷)しない者はいません。陛下は至孝が烝烝(盛んな様子)としており、聖徳を奉順(遵守)しています。臣の愚見によるなら、更衣は中門の外にあり、場所が特殊なので(処所殊別)、廟を尊んで顕宗とし、四時の禘祫(四季の正祭)は光武の堂で行い、閒祀(正祭以外の祭祀)は全て更衣に還って行い、共に武徳の舞を進め、孝文皇帝が高廟で祫祭(太祖廟で行う祖先の合祀)した故事(前例)のようにするべきです。」
章帝は制(皇帝の命令)を発して「可」と言いました。
 
[十六] 『資治通鑑』からです。
太后の兄弟に当たる虎賁中郎馬廖と黄門郎馬防、馬光の三人は、明帝の治世に官を改められたことがありませんでした。
即位したばかりの章帝は馬廖を衛尉に、馬防を中郎将に、馬光を越騎校尉に任命しました。
 
馬廖等が身を傾けて(熱心に)士と交わったため(傾身交結)、冠蓋の士(官吏。「蓋」は車の傘です)が争って赴趣(迎合)しました。
第五倫が上書して言いました「臣が聞くに、『書』はこう言っています『臣が(民に対して)威を為したり福を為したりしてはならない。(もしそうしたら)家を害し国の凶となる(原文「臣無作威作福,其害于而家,凶于而国」。『尚書洪範』が元になっています。臣下に大きな権力を与えてはならないという意味です)。』近世においては、光烈皇后(陰太后は天が友愛を到らせましたが(天性の友愛の人でしたが。原文「友愛天至」)、陰氏を抑損(制御)し、権勢を与えませんでした。後の梁竇の家(『資治通鑑』胡三省注によると、梁松、竇穆等を指します)は互いに法を犯したので(互有非法)、明帝が即位してから多くを誅殺しました。その後、洛中(雒陽城内)には権戚(権勢を持つ外戚がいなくなり、書記・請託(手紙を書いたり、こねを使って何かを依頼すること)が一切断絶されました(一皆断絶)。また、(明帝は)外戚を諭してこう言いました『苦労して士を遇すよりも、国のために働いた方がいい。頭に盆を被って天を仰いでも、二つの事は完成できない(原文「苦身待士,不如為国。戴盆望天,事不両施」。「戴盆望天」というのは、頭に盆を被って空を見上げるという意味です。頭に盆を被って見上げても空は見えないので、行動と目的が相反しているという比喩で使われます)。』今の議者もまた馬氏を言と為しています(今の人々も馬氏について議論しています。原文「今之議者復以馬氏為言)。臣が聞いたところ(竊聞)、衛尉馬廖は布三千匹を、城門校尉馬防は銭三百万を使って私的に三輔の衣冠(士人)を助け(私贍三輔衣冠)、知っている者でも知らない者でも、全てに与えました(知與不知,莫不畢給)。また、聞いたところでは、臘日(十二月臘祭の日。臘祭は冬の祭祀です)にも雒中の者にぞれぞれ銭五千を贈りました。越騎校尉馬光は臘(臘祭)で羊三百頭、米四百斛、肉五千斤を使いました。臣の愚見では、これらは経義に応じておらず、惶恐しているので(恐れ不安なので)報告しないわけにはいきません(不敢不以聞)。陛下は情によって彼等を厚く遇しようと欲していますが、同時に彼等を安んじさせるべきです(亦宜所以安之)。臣が今これを語るのは、誠に上は陛下に対して忠を尽くし、下は后家(馬太后の家族)を全うさせたいからです。」
資治通鑑』は明記していませんが、『後漢書第五鍾離宋寒列伝(巻四十一)』によると、明帝は第五倫の意見を採用しませんでした(馬氏は明帝の跡を継いだ章帝の時代に衰落します)
 
[十七] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。
この年、牛疫(牛の疫病)が発生しました。
また、京師と兗徐州を大旱が襲いました。
章帝が詔を発し、兗・豫・徐州の田租や芻稾(柴草。飼料)を免除して現存の穀物で貧人を救済させました。
 

 
次回に続きます。

東漢時代95 章帝(一) 楊終の上書 76年(1)