東漢時代95 章帝(一) 楊終の上書 76年(1)

今回から東漢章帝の時代です。
 
粛宗孝章皇帝
名を劉炟といいます。実母は賈貴人ですが、馬后が母として養い、明帝の嫡子になりました。
後漢書・粛宗孝章帝紀』によると、章帝は顕宗明帝の第五子で、明帝永平三年60年)に皇太子に立てられました。幼い頃から寛容で、儒術を好んだため、明帝に器重(重視。寵愛)されました。
 
明帝永平十八年75年)八月壬子(初六日)に十九歳で即位し、馬皇后を尊重して皇太后にしました。
 
 
東漢章帝建初元年
丙子 76
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、章帝が兗徐三州(前年、大旱に襲われました)の郡国に詔を発して飢民を救済させました(原文「稟贍飢民」。「稟贍」は食糧を与えて救済することです)
 
以下、『粛宗孝章帝紀』から詔の内容です「ちょうど春の東作(東は春を意味します。「東作」は春の農事です)の時なので、人々に少しずつ(食糧を)受給させたら(人稍受稟)、往来が煩劇(繁多。複雑)になり、あるいは耕農を妨げることになるのではないかと恐れる。よってそれぞれ最も貧しい者を実覈(審査、考察)し、貸とするところ(貸与する必要がある額)を計ってまとめて与えよ(計所貸并與之)。流人で本(故郷)に帰ることを欲する者には、郡県が実情に基いて食糧を与え(郡県其実稟)、その足を還らせて(故郷に)到らせよ。官亭に自由に泊まらせ、(民が)舍宿の費用を出す必要はない(聴過止官亭無雇舍宿)。長吏が自ら行動し(長吏親躬)、貧弱(の民)を遺脱させてはならず(「貧弱の民への救済を漏らしてはならず」。または「貧弱の民を離散逃走させてはならず」)、小吏豪右に姦妄の機会を与えてもならない(無使貧弱遺脱,小吏豪右得容姦妄)詔書が下されたら稽留(停滞。遅延)してはならず、刺史は特に無状な者(善行がない者。奸悪な者)に対して明らかに督察を加えよ。」
 
章帝が司徒鮑昱に問いました「どうすれば旱災を消滅させて正常な状態に回復できるか(何以消復旱災)?」
鮑昱が答えました「陛下は天位(帝位)に即いたばかりなので(始践天位)、たとえ失得(過失)があったとしても、まだ異変を招くことはありません(即位したばかりなので、まだ天が失政に感応することはありません)。臣が以前、汝南太守だった時、楚事(楚王劉英の謀反事件。明帝永平十三年70年)を典治し(「典治」は政務を主管することです。『資治通鑑』胡三省注によると、当時、汝南で連座した者は鮑昱が審理を担当しました)、繫がれた者が千余人いましたが、恐らく全てをその罪に当てることはできません(原文「恐未能尽当其罪」。恐らく謀反の罪に該当しない者もいます)。大獄が一度起きたら、冤者が半数を越えます。また、諸徙者(流刑の者)は骨肉が離分(分離)し、孤魂(孤独な魂)も祀られなくなります。一切を諸徙の家に還らせ、禁錮(仕官を禁じる規制)を蠲除(廃除)し、死者と生者に居場所を獲させるべきです。そうすれば和気(瑞祥の気)を招くことができます。」
章帝はこの進言を採用しました。
 
校書郎楊終が上書しました「最近、北は匈奴を征し、西は三十六国を開き、百姓が頻年(連年)服役して転輸で煩費(多額な費用を費やすこと)しています。愁困の民は天地を感動(感応)させるに足ります。陛下は留念省察(反省熟考)するべきです。」
 
資治通鑑』胡三省注によると、西漢の蘭台は藏書の部屋で、文学の士がその中で文書を讎校(校正)しました。そこから校書の職が生まれます。西漢の劉向、揚雄等です。東漢は蘭台に令史を置き、秘書(蔵書)の校正を行わせました(典校秘書)。郎でこの任務を負った者が校書郎です。楊終は蘭台に招かれて校書郎に任命されていました。
 
章帝が楊終の章(上書)を群臣に下して議論させました。
第五倫も楊終の意見と同じでしたが、牟融と鮑昱はこう言いました「孝子は父の道を改めないものです。匈奴を征伐し、西域に屯戍するのは、先帝が建てたことなので、回異(改変)するべきではありません。」
 
楊終が再び上書しました「秦は長城を築いて功役(土木等の労役)を頻繁に興しましたが、胡亥がこれを改革しなかったため、最後は四海を失いました。逆に故孝元西漢元帝は珠厓の郡を棄て、光武は西域の国(との関係)を絶ち、介鱗を我々の衣裳に換えませんでした(「介鱗」は甲羅や鱗がある虫・魚の類ですが、ここでは遠夷を指します。「衣裳」は中原の服です。異民族に中原の服を着させなかった、異民族の統治をあきらめたという意味です。原文「不以介鱗易我衣裳」)。魯文公が泉台を破毀したことを『春秋』が譏って(謗って)『先祖がこれを為したのに(子孫が)破棄した。(破壊するのではなく)住まないようにすればいいだけだった(先祖爲之而毀之,不如勿居而已)』と言いましたが、これは(泉台が)民にとって妨害にならなかったからです。襄公が三軍を作りましたが、昭公はこれを捨てました。君子は復古を重視し(君子大其復古)(三軍の制度を)捨てなかったら民にとって害になると考えたからです。今、伊吾の役や楼蘭の屯兵のために(多くの士卒が)久しく還っていません。これは天意ではありません。」
章帝は楊終の意見に従いました。
 
伊吾は明帝時代に竇固等が占拠しました。
楼蘭は『資治通鑑』胡三省注によると鄯善を指します。楼蘭の兵は班超が率いる吏士のようです。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。
丙寅(二十三日)、章帝が詔を発しました「比年(連年)、牛に疾疫が多く、墾田が減少し、穀価が頗る貴くなっているため、人々が流亡している。ちょうど春の東作の時なので、時務に及ぶべきである(春の農事を優先するべきである)。二千石は勉めて農桑を勧め(奨励し)、広く慰労をもたらせ(弘致労来)。群公庶尹(百官)はそれぞれ精誠を推し進めて人事(民の事業、事情)を専急(重視。優先)せよ。殊死(死刑)以外の罪は立秋を待って按験(審理)せよ。有司(官員)は明慎(明察慎重)に選挙を行い、柔良(温柔善良)を進め、貪猾を退け、時令(季節ごとの政令に順じ、冤獄を理せ(正せ)。五教(「五教」は父義母慈兄友弟恭子孝です)の根本は寛容にあり(五教在寛)、『帝典尚書。舜典)』が美とするところである。親しく付き合いやすい君子(愷悌君子)とは、『大雅(詩経)』が感嘆するところである。天下に布告して朕の意を明らかに知らしめよ。」
 
当時は永平の故事(明帝時代の前例)を受け継いでいたため、官吏の政治は厳切(厳酷)を貴んでおり、尚書が裁きを下す時もほとんどが重い判決に近付けていました。
尚書で沛国の人陳寵は章帝が即位したばかりなので、前世の苛俗(苛酷な気風)を改めるべきだと考え、上書してこう言いました「臣が聞くに、先王の政は賞が度を越えず(賞不僭)、刑が妄りに行われず(刑不濫)、やむを得ない時は賞が度を超すことを選んでも、刑を妄りに行うことは選びませんでした(與其不得已,寧僭無濫)。以前は断獄(裁判)が厳明だったので、威によって姦慝(奸悪)を懲らしめました。しかし今は姦慝が既に平らげられたので、必ず寛容によってこれを成就させるべきです(必宜済之以寛)。陛下は即位してからこの義(寛容に勉める道理)を遵守しており(率由此義)、しばしば群僚に詔を発して広く温和を尊重させてきましたが(原文「弘崇晏晏」。『資治通鑑』胡三省注によると、「晏晏」は温和の意味です)、有司(官員)はまだ完全に奉承(受け入れること)しておらず、まだ深刻(厳酷)を貴んでいます。断獄の者(判決を下す者)格酷烈の痛を急ぎ(鞭打ち等の拷問を急いで行い。「格」は「鞭打ち」です)、執憲の者(法を行う者)は詆欺放濫(「詆欺」は「讒言」、「放濫」は「節制がないこと」「放縦なこと」です)の文(法令)に煩い(こだわり)、ある者は公を利用して私を行い、威福を好き勝手に利用しています(逞縦威福)。政治を為すのは琴瑟に弦を張るのと同じです(夫為政猶張琴瑟)。大絃(大弦)が急なら(きつすぎたら)小絃(小弦)が絶たれます。陛下は先王の道を興隆させ、煩苛の法を蕩滌(廃除)し、箠楚(鞭や棍棒の刑)を軽薄にして(軽減して)群生を救い、至徳(最高の徳)を全面的に広めて天心に順うべきです(全広至徳以奉天心)。」
章帝は陳寵の言を深く受け入れて事を行う時はいつも寛厚に務めました。
 
 
 
次回に続きます。