東漢時代96 章帝(二) 耿恭帰還 76年(2)

今回は東漢章帝建初元年の続きです。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』からです。
二月、武陵の澧中蛮が叛しました。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と資治通鑑』からです。
酒泉太守段彭等が柳中で兵を集結させ、車師を撃って交河城を攻めました。
資治通鑑』胡三省注によると、車師前王が交河城に住んでいました。黄河が分かれて城の周りを流れているため、交河といいます。長安から八千百里離れています。
 
漢軍が車師を大破して三千八百級を斬首し、生口(捕虜)三千余人を得ました。
北匈奴は驚いて逃走し、車師が再び漢に降ります。
 
この時、関寵(柳中城を守っていました)は既に死んでいました。
車師後部の疏勒城では耿恭がまだ包囲されたままですが、謁者王蒙等(前年、関寵と耿恭を援けるために派遣されました)は兵を率いて帰国しようとします。
しかし、耿恭の軍吏范羌が軍中におり、耿恭を迎え入れることを強く請いました。
資治通鑑』胡三省注によると、これ以前に耿恭が范羌を敦煌に派遣し、兵士の寒服(冬服)を受け取らせました。王蒙軍が塞を出た時、范羌も同行していました。
 
諸将は自ら耿恭を援けようとはせず、兵二千人を分けて范羌に与えました。
范羌は山北に沿って耿恭を迎えに行きます。ちょうど大雪が一丈余も積もりましたが、范羌軍はなんとか到着できました(軍僅能至)
城中では夜に兵馬の声を聞いたため、虜北匈奴が来たと思って大いに驚きました。
しかし范羌が遠くから「私は范羌だ(我范羌也)。漢が軍を派遣して校尉を迎えに来させた!」と叫ぶと、城中の者が皆、万歳を称えました。門を開き、互いに抱え合って涙を流します。
翌日、城中の兵が范羌に従って共に帰還しました。
 
北匈奴の兵が追撃したため、漢軍は戦いながら行軍しました。吏士はこれ以前に飢困しており、疏勒を発った時には二十六人いましたが、道中で次々に死亡しました。
 
三月、玉門敦煌郡の関です。酒泉郡に玉門県がありますが、別の場所です)に入りました。残っていたのは十三人だけで、衣屨(衣服や履物)は破れて穴があき、容貌は枯木のように憔悴していました(形容枯槁)
中郎将鄭衆が耿恭やその部下のために洗沐(沐浴)を準備し、衣冠を換えさせました。
資治通鑑』胡三省注によると、鄭衆はこれ以前に軍司馬として馬廖と共に車師を撃ち、敦煌に至って中郎将に任命されていました。
 
鄭衆が上書しました「耿恭は単兵で孤城を守り、匈奴数万の衆に当たって月を連ね、年を越えました(連月踰年)。気力も体力も困窮して尽き果てながら(心力困尽)、山を掘って井戸を作り(鑿山為井)、弩を煮て食糧とし(煑弩為糧)、前後して殺傷した醜虜は数百千を数え(前後殺傷醜虜数百千計)、その卒(士卒)は全て忠勇で、大漢の恥になりませんでした。(彼等が)顕爵(高爵)を蒙ることで将帥に対する励みとするべきです。」
耿恭は雒陽に還ってから騎都尉に任命されました。
 
章帝が詔を発して戊己校尉および西域都護の官を廃止し、疏勒国にいる班超を呼び戻しました。
 
班超が帰国しようとすると、疏勒が国を挙げて憂恐しました。
疏勒の都尉(『資治通鑑』胡三省注によると、疏勒国の官には疏勒侯、撃胡侯、輔国侯と都尉がいました)黎弇が「漢使(漢の使者)が我々を棄てたら、我々は必ず再び亀茲に滅ぼされることになります。誠に漢使が去るのを見るのは忍びありません(堪えられません)」と言い、刀を抜いて自剄しました。
班超が疏勒を去って于まで至ると、于でも王侯以下の者が皆、号泣して「漢使に頼るのは父母に頼るのと同じです(依漢使如父母)。誠に去ってはなりません(誠不可去)」と言い、互いに班超の馬脚に抱きついて進めなくしました。
班超も本志(本来の志)を成し遂げたいと欲していたため、改めて疏勒に戻りました。
 
この時、既に疏勒の二城が亀茲に降っており、尉頭国と連兵(連合)していました。
資治通鑑』胡三省注によると、尉頭国は尉頭谷にありました。長安から八千六百五十里離れており、南が疏勒と接しています。
 
班超は反した者を捕えて斬り、尉頭を撃破して六百余人を殺しました。
疏勒が再び安定しました。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月甲寅(十二日)、山陽郡と東平国で地震がありました。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』からです。
己巳(二十七日)、章帝が詔を発しました「朕は無徳によって大業を奉承(継承)したので、朝から夜まで戦戦兢兢とし(夙夜慄慄)、敢えて荒寧(怠惰して安逸を求めること)できない。しかし災異が頻繁に現れ、政と相応している。朕は不明なうえ、道に登ってからの日が少ない(即位して間もない。原文「渉道日寡」)。また、選挙が乖実し(実を失い)、俗吏が人を傷つけ、官職が秏乱(混乱)し、刑罰が適切ではない(刑罰不中)。これを憂いずにいられるだろうか(可不憂與)。昔、仲弓が季氏の家臣になり、子游が武城の小宰になった時、孔子はなおも賢才を用いるように教導し(猶誨以賢才)、相応しい人材を得たかどうかを質問した(『論語』の『子路篇』と『雍也篇』の故事です。孔子は仲弓に「小さな過ちは赦して賢才を挙げよ」と言い、子游に「汝は相応しい人材を得たか」と問いました)。明政とは大小に関わらず人を得ることを本とする。郷挙里選は、必ず功労(労力、労苦)を重ねなければならない(必累功労)。しかし今の刺史守相は真偽に対して明るくなく、茂才孝廉は歳に百を数えるが(一年に百人以上が推挙されるが)、能力が顕著ではないので(既非能顕)、政事を授けたとしても全く意味がない(甚無謂也)。いつも前世の挙人貢士(推挙された人材)について尋ねているが(探究しているが)、ある者は甽畒(農地)で起きて閥閲(家紋。家柄)に繋がらなかった(前代の推挙された人材は才能を重視して家柄にとらわれなかった)(彼等が)言によって陳述報告したら(敷奏以言)その文章を採用でき、功において明試したら(明らかな功績を立てさせることで能力を試したら。原文「明試以功」)政に異迹(尋常ではない行跡)があった。文質が彬彬(優雅)とし、朕は甚だこれを嘉している。よって太傅、三公、中二千石、二千石、郡国の守相に命じ、賢良方正で直言極諫ができる士を各一人挙げさせる。」
 
 
 
次回に続きます。