東漢時代97 章帝(三) 東平王劉蒼 76年(3)
今回で東漢章帝建初元年が終わります。
章帝が書を送って応えました「最近、吏民の奏事にもこの言があった。しかし(朕の)明智が浅短なので、ある時は正しいかもしれないと思っても(或謂儻是)、後にまた考慮して正しくないと思い(復慮為非)、どう決定すればいいのか分からなかった(不知所定)。今回、王の深策を得て完全に意が解けた(恢然意解)。嘉謀(良策)を検討して、順番に実行しよう(思惟嘉謀以次奉行)。王に銭五百万を特別に下賜する。」
しかし劉蒼が上書して諫めました「臣が見るに(竊見)、光武皇帝はその身をもって倹約の行を実践し(躬履倹約之行)、始終の分(生命の始めと終わりの道理)を深くわきまえ(深覩始終之分)、勤勤懇懇(誠実懇切)として葬制を言(遺言)にしました。孝明皇帝は大孝だったので(光武帝の遺言に)違えることなく遵守実行しました(承奉遵行)。謙徳の美はここにおいて盛大になっています。臣の愚見によるなら、園邑の興(興起。流行)は強秦から始まります(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。秦始皇帝が驪山に埋葬されてから、秦は三万家を遷して驪邑を造りました。西漢もこれに倣い、諸陵で園邑を造りましたが、元帝に至って中止されました)。古では、丘隴(墳墓。土を盛った墓)を造っても著明(目立つこと)を欲しませんでした。郭邑を築いて都郛(城郭)を建てるなどもってのほかです(豈況築郭邑、建都郛哉)。上は先帝の聖心に違え、下は無益の功を造り、国用(国の費用)を虚費(浪費)して百姓を動揺させるのは、和気(瑞祥の気)を招いて豊年(豊作)を祈る方法ではありません。陛下は有虞(帝舜)の至性(卓越した天性。舜は孝子としても名が知られています)を実行し、祖禰(祖父と父)の深思(深意)を追念するべきです。臣蒼は二帝の純徳の美が無窮に伝えられないこと(不暢於無窮)を誠に痛みます(悲痛します)。」
章帝は陵園での県邑建設を中止しました。
この後、朝廷で疑政(判断が困難な政事・政策)がある度に、明帝は駅車で使者を送って劉蒼に教えを請いました。
劉蒼も心を尽くして回答したため、意見が全て採用されました。
夏五月辛酉、初めて孝廉と郎の中から寛容博学かつ謀がある者を選び、典城(一城の管理。または「典成」で訴訟の管理)を任せられる者に長(県長)・相(諸侯の国相)を輔佐させました。
秋七月辛亥、章帝が詔を発し、上林の池籞(苑林池。「籞」は竹垣や柵の意味です)の田を貧人に与えました。
秋八月庚寅(二十日)、孛星(彗星の一種)が天市(星または星座の名)に現れました。
そこで明帝はこの地に永昌郡を置いて鄭純を太守に任命しました。
本文に戻ります。
鄭純の後を継いだ者は夷人を撫循できませんでした。
冬十月、武陵の郡兵が叛蛮(二月に叛した澧中蛮)を討伐し、破って降しました。
この頃、「劉延と子男(息子)の劉魴が逆謀(叛逆の陰謀)を企んでいる」と告発する者がいました。
しかし章帝には劉延を誅殺できませんでした(上不忍誅)。
十一月、劉延を阜陵侯に落として食邑を一県のみとし、吏民と通じることを禁止しました。
北匈奴の皋林温禺犢王が衆を率いて涿邪山に戻り、その地に居住しました。
この年、南部(南匈奴)を大飢饉が襲いました(『資治通鑑』は「次饑」と書いていますが、恐らく「大饑」の誤りです。『後漢書・南匈奴列伝(巻八十九)』は「この年、南部が蝗に苦しみ大飢に襲われた(其年,南部苦蝗大飢)」と書いています)。
次回に続きます。