東漢時代100 章帝(六) 耿恭失脚 78年
今回は東漢章帝建初三年です。
東漢章帝建初三年
戊寅 78年
春正月己酉(十七日)、章帝が明堂で宗祀(祖宗の祭祀)を行いました。
礼が終わってから霊台に登って雲物(雲気。天象)を望みました(「雲物」を観察することによって吉凶を判断しました)。
天下に大赦しました。
馬防が布橋を撃って大破しました。布橋は種人(族人)一万余人を率いて投降します。
章帝は詔を発して馬防を呼び戻し、耿恭を留めてまだ服従していない者達を撃たせました。
耿恭は千余人を斬首したり捕虜にします。勒姐・焼何等の十三種(族)数万人が全て耿恭を訪ねて投降しました。
耿恭はかつて馬防の意に逆らう上書をしたことがありました。
『後漢書・耿弇列伝(巻十九)』によると、耿恭が隴西に出征した時、上書してこう進言しました「故安豊侯・竇融は昔、西州におり、甚だ羌胡の腹心(心。真心)を得ています。今、大鴻臚・竇固はその子孫であり(竇固は竇友の子で、竇友は竇融の弟です)、以前、白山を撃って功が三軍に冠しました(三軍の筆頭でした)。大使の命を奉じて涼州部を鎮撫させ(宜奉大使鎮撫涼部)、車騎将軍・馬防を漢陽に屯軍(駐軍)させて威重(威厳。ここでは後援の意味です)とするべきです。」
この意見が馬防の怨みを買いました。『耿弇列伝』の注は「耿恭が竇固を推薦して(馬防の)権を奪ったことを恨んだ」と解説しています。
本文に戻ります。
監営謁者(『耿弇列伝』によると名を李譚といいます)が馬防の意を受けて上奏し、耿恭が軍事に専念していない(不憂軍事)と訴えました。
耿恭は呼び戻されて獄に下され、官を免じられます(原文「坐徵下獄免官」。「坐徵」は罪を問われて呼び出されることです)。
『耿弇列伝』によると、獄に下された耿恭は免官のうえ本郡(故郷の郡)に帰らされ、最後は家で死にました。
三月癸巳(初二日)、章帝が貴人・竇氏を皇后に立てました。
民に一人当たり二級の爵を、三老・孝悌・力田には一人当たり三級を、名数(名簿・戸籍)がない民および名乗り出て戸籍を欲した流民(民無名数及流民欲占者)には一人当たり一級を下賜しました。また、鰥寡(配偶者を失った男女)・孤独(孤児や身寄りがない老人)・篤𤸇(重病の者)・貧困で家属もなく自存できない者には一人当たり五斛の粟を与えました。
顕宗(明帝)の時代、常山の虖沱河(呼沱河)と石臼河で治水を行い、都慮から羊腸倉まで水路を開こうとしました(欲令通漕)。
しかし太原の吏民が労役に苦しみながら年を重ねても完成できず、数え切れないほどの死者が出ました。
章帝は郎中・鄧訓を謁者にしてこの工程を監領(監督)させました。
鄧訓は測量考察して(考量隠括)完成が困難だと知り、詳しく章帝に報告しました。
夏四月己巳(初九日)、章帝が詔を発してこの労役を中止し、驢輦(驢馬が牽く車。ここでは陸路を指します)を使って物資を輸送することにしました。
冬十二月丁酉(十一日)、馬防を車騎将軍にしました。
武陵漊中蛮が反しました。
二年後に平定されます。
この年、有司(官員)が上奏して広平王・劉羨、鉅鹿王・劉恭、楽成王・劉党を封国に赴かせるように進言しました(三人とも明帝の子で、章帝の兄弟です)。
しかし章帝は性格が篤愛(厚愛)だったため、諸王との離別が忍べませんでした。
結局、皆、京師に留まりました。
この年、零陵が芝草(霊芝)を献上しました。
次回に続きます。