東漢時代101 章帝(七) 白虎観会議 79年

今回は東漢章帝建初四年です。
 
東漢章帝建初四年
己卯 79
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と資治通鑑』からです。
春二月庚寅(初五日)、太尉牟融が死にました。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月戊子(初四日)、皇子劉慶を太子に立てました。
劉慶の母は宋貴人です。
 
民に一人当たり二級の爵を、三老孝悌力田には一人当たり三級を、名数(名簿戸籍)がない民および名乗り出て籍を欲した流人(民無名数及流人欲自占者)には一人当たり一級を下賜しました。また、鰥寡(配偶者を失った男女)孤独(孤児や身寄りがない老人)𤸇(重病の者)貧困で家属もなく自存できない者には一人当たり五斛の粟を与えました。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。
己丑(初五日)、鉅鹿王劉恭を江陵王に、汝南王劉暢を梁王に、常山王劉昞を淮陽王に遷しました。
三人とも明帝の子で、章帝の兄弟です。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と資治通鑑』からです。
辛卯(初七日)、皇子劉伉を千乗王に、劉全を平春王に封じました。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と資治通鑑』からです。
有司(官員)が旧典を根拠にして、立て続けに諸舅(馬氏)の封侯を請いました。
章帝は天下が豊稔(豊作)で方垂(四方の辺境)に変事がないことを理由に、馬氏を封侯することにしました。
癸卯(十九日)、衛尉馬廖を順陽侯に、車騎将軍馬防を潁陽侯に、執金吾馬光を許侯に封じます。
 
それを聞いた馬太后が言いました「私が少壮の時は、ただ竹帛を慕い、志は命を顧みませんでした(古人が竹帛に名を残したことを羨み、命の長短は顧みませんでした。原文「但慕竹帛,志不顧命」)。今は既に老いましたが、なお貪婪になることを戒めているので(原文「猶戒之在得」。『論語季子篇』の言葉が元になっています。「得」は「貪婪に物を得る」という意味です。『論語』に「若い時は色を戒め(戒之在色)、壮年になったら闘を戒め(戒之在闘)、老年になったら得ることを戒める(戒之在得)」とあります)、日夜惕厲(恐れて警戒すること。慎重にすること)して自ら地位を低くすることを思い(思自降損)、この道(道理)に乗って先帝を裏切らないようにしようと願っていました(冀乗此道不負先帝)。だから兄弟を化導(教導)してこの志を共にし、瞑目の日にも後悔を抱かないようにしようと欲していましたが、老志が守られなくなるとは思いませんでした(何意老志復不従哉)。万年(逝去)の日に長恨することになるでしょう。」
馬廖等はそろって侯位を辞退し、関内侯の爵に就くことを願いましたが、章帝は許可しませんでした。
馬廖等はやむなく封爵を受けましたが、上書して官位を辞しました。章帝はこれには同意しました。
 
五月丙辰(初二日)、馬防、馬廖、馬光が官位を辞し、特進の地位で家に還りました。
 
後漢書皇后紀下』を見ると、章帝が馬廖、馬防、馬光を列侯に封じましたが、三人とも辞退して関内侯の爵位を願いました。それを聞いた馬太后が上述の発言をしており、馬廖等はやむなく封爵を受け入れたものの官位を退きました。
しかしこれでは文の前後が繋がらないため、『資治通鑑』は馬太后の発言を馬廖等が関内侯の爵位を求める前に置いています(『資治通鑑』胡三省注参照)
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と資治通鑑』からです。
甲戌(二十日)、司徒鮑昱を太尉に、南陽太守桓虞を司徒に任命しました。
『粛宗孝章帝紀』の注によると、桓虞の字は仲春といい、馮翊の人です。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と資治通鑑』からです。
六月癸丑(三十日)、皇太后馬氏が死にました。
章帝の実母は賈貴人でしたが、馬太后に養われました。そのため章帝は馬氏だけを外家(母側の親戚)としました。賈貴人は極位(皇太后の地位)に登ることなく、賈氏の親族でも寵栄を受けた者はいません。
 
太后の死後も、賈貴人には諸侯王の赤綬を加え(『資治通鑑』胡三省注によると、漢制では貴人は「緑綬」を持ちました。赤綬は諸侯王が持つ綬です)、安車一駟(四頭の馬が牽く座って乗る小車)、永巷の宮人後宮の宮婢)二百人、御府の雑帛(各種の帛)二万匹、大司農の黄金千斤、銭二千万を与えただけでした(賈貴人は馬太后の死後も皇太后になりませんでした)
 
秋七月壬戌(初九日)、明徳皇后(馬皇太后を埋葬しました。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』からです。
牛に大疫が発生しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
校書郎楊終が建議して言いました「宣帝は広く群儒を集め(博徵群儒)、石渠閣で『五経』を論定しました西漢宣帝甘露三年51年参照)。今は天下が少事なので(平穏なので)、学者がその業を成せるようになりましたが、章句の徒が大礼を破壊しています(一章一句にこだわる者達のために経典の大義が損なわれています)。石渠の故事(前例)に倣って、永く後世の則(法則。規範)と為すべきです(後世に永く残る経典の基準を作るべきです。原文「宜如石渠故事,永為後世則」)。」
章帝はこの意見に従いました。
 
冬十一月壬戌(十一日)、章帝が詔を発しました「およそ三代夏商周が人を導く時は教学(教育)を本にした。漢は暴秦を継承してから、儒術を襃顕(推奨宣揚)し、五経を建立して博士を置いた。その後、学者が精進し、師から(学説を)継承したと言いながらも別の家を名乗った(独立した学問を形成した。原文「雖曰承師亦別名家」)。孝宣皇帝は聖人から離れて久遠になり、学んでも満足しなかったため(原文「学不厭博」。誤訳かもしれません)、大小夏侯の『尚書』を立て、後にまた京氏の『易』を立てた(『粛宗孝章帝紀』の注から解説します。大小夏侯は夏侯勝とその親族に当たる夏侯建です。京氏は京房です)建武光武帝建武年間)に至って、また顔氏・厳氏の『春秋』と大小戴『礼』の博士を置いた(『粛宗孝章帝紀』の注からです。厳氏は厳彭祖、顔氏は顔安楽といいます。大小戴は戴徳と戴聖です)。これらは皆、微学(衰微した経学)を扶進し(助けて推進し)、道芸を尊んで広めるためである。光武帝中元元年の詔書によって、『五経』の章句が煩多なため、減省(削減省略)を欲して議論した。(明帝)永平元年、長水校尉(樊鯈)が先帝の大業を奏言(上奏)し、(『五経』の整理を)すぐに施行(実行)するべきだと言った(当以時施行)
よって、諸儒を使って共に経義を正し、学者に自助を頗る得させること(学者に多くの助けを得させること。原文「頗令学者得以自助」)を欲する。孔子はこう言った(以下、二つとも『論語』が元になっています)『学んでも講じないこと(習熟しないこと)、これは私が憂いることである(学之不講是吾憂也)。』またこうとも言った『広く学んで志を厚くし、懇切に質問して近いことを考える。仁とはその中にある(博学而篤志,切問而近思,仁在其中矣)。』於戲(嗚呼。ああ)、これに勉めて努力せよ(其勉之哉)。」
 
章帝は太常に詔を下し(『粛宗孝章帝紀』の注によると、博士が太常に属すので、太常に詔が下されました)、将、大夫、博士、議郎、郎官および諸生、諸儒を白虎観に集めて『五経』の同異を議論させました。
資治通鑑』胡三省注によると、「将」は三署虎賁羽林の中郎将、「大夫」は光禄太中中散諫議大夫、「博士」は『五経』の各博士、「郎官」は五署郎尚書蘭台東観校書の郎です。
白虎観は北宮にありました。
 
章帝は五官中郎将(『粛宗孝章帝紀』の注によると比二千石です)魏応に命じて承制(皇帝の代わりに命を発すること)によって質問させました。侍中淳于恭が内容を上奏し、章帝自ら制(皇帝の言葉、命令)を発して決議します(称制臨決)。これは孝宣皇帝甘露年間の石渠の故事と同じです(石渠閣会議では蕭望之等が議論の内容を上奏して宣帝自ら裁決しました。西漢宣帝甘露三年51年参照)
会議の内容をまとめて『白虎議奏』が作られました。
会議には名儒の丁鴻、楼望、成封、桓郁、班固(班超の兄。『漢書』の作者)、賈逵および広平王劉羨等が参加しました。
 
以上は『後漢書・粛宗孝章帝紀』と資治通鑑』の記述です。白虎観で開かれたこの会議を「白虎観会議」といいます。
後漢書・粛宗孝章帝紀』の注は『白虎議奏』を「今の『白虎通』である」と解説しています。『白虎通』は『白虎通義』ともいい、白虎観会議の結果を班固がまとめた書です。
後漢書儒林列伝上(巻七十九上)』には「(会議の内容を)著して『通義』にした」とあり、これが『白虎通義』に当たります。
しかし『後漢書班彪列伝下(巻四十下)』を見ると「天子が諸儒を会して『五経』を講論し、『白虎通徳論』を作って班固にその事を撰集させた」とあります。
更に、『欽定四庫全書総目巻百十八子部雑家類二』の筆頭に『白虎通義』の解説があり、そこでは白虎観の議奏(討論した内容をまとめた上奏文)を『白虎通徳論』といい、それを元に班固が撰集したのが『白虎通義』だとしています。
現在、通常読まれているのは『白虎通義(白虎通)』ですが、これが『白虎通徳論』『白虎議奏』と同じものだったのかどうかははっきりしません。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』からです。
この年、甘露が泉陵と洮陽の二県に降りました。
『粛宗孝章帝紀』の注によると、二県とも零陵郡に属します。
 
 
 
次回に続きます。