東漢時代102 章帝(八) 班超出兵 80年

今回は東漢章帝建初五年です。
 
東漢章帝建初五年
庚辰 80
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。
春二月庚辰朔、日食がありました。
 
章帝が詔を発して直言極諫の士を推挙させました。
以下、『粛宗孝章帝紀』から詔の内容です「朕は供養から離れたばかりだが(ここでの「供養」は親を養うことです。「供養から離れた」というのは馬太后崩御を指します)、愆咎(罪と咎。罪過)が集まって顕著になり(愆咎衆著)、上天が異を降し、大変(大変異)がこれに続いて来る。『詩(小雅十月之交)』はこう言っているではないか『これ(日食)は最悪なことだ(原文「亦孔之醜」。「孔」は「甚だしい」、「醜」は「悪い」の意味です)。』また、久しい旱害が麦を傷めているので、憂心惨切(悲痛)している。公卿以下はここに直言極諫の士で朕の過失を指摘できる者を各一人挙げ、公車(官署)を訪ねさせよ。(朕が)自ら覧問しよう。岩穴(岩穴の士。隠者)を優先し、浮華(表層を飾るだけの者)を取ってはならない。」
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』からです。
甲申(初五日)、章帝が詔を発しました「『春秋』が『麦苗がない(無麦苗)』と記載するのは、これを重んじた(食糧がないことを重視した)からである。去秋(昨年の秋)は雨沢(雨水)が適切でなく、今時(今)もまた旱に遭い、燃えるようである(如炎如焚)。凶年はいつでも訪れるが(凶年無時)、備えとすることが至っていない(天災に対する備えがない。原文「而為備未至」)。朕の不徳が上は三光(日月星)に累し(影響を与え)、戦慄憂慮して心も頭も痛めている(震慄忉忉痛心疾首)。前代の聖君は思慮が広く善道を求めたため(博思咨諏)、たとえ災咎が降ったとしても、いつも開匱反風の応があった西周時代、武王が病を患ったため、周公が自分の命に代えて武王が助かることを祈り、その内容を金匱(金箱)で保管しました。成王の代になってから、管蔡が周公を陥れる噂を流したため、まだ幼かった成王は周公を疑いました。すると天が大風を吹かせて穀物や木を全て倒しました。後に成王が金匱を開いて周公の忠心を知り、郊外で天を祭って謝罪しました。その結果、天が反風(逆風)を吹かせたため、穀物や木が立ち上がって元に戻りました)。しかし予小子(私)はいたずらに惨惨(悲痛の様子)とさせているだけである。今、二千石に命じて冤獄を理し(正し)、軽繋(刑犯罪者)を録させる(恐らく姓名を記録して釈放したのだと思います)。五嶽四瀆(泰山、華山、衡山、恒山、嵩山と長江、黄河、淮水、済水)および雲を興して雨を到らせることができる名山を祈祷し、一朝だけで終わらない天下に遍く降る雨の報せが来ることを期待する(冀蒙不崇朝徧雨天下之報)。務めて粛敬を加えよ。」
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』からです。
三月甲寅、章帝が詔を発しました「孔子はこう言った『刑罰が適切でなかったら、人は手足を置く場所もなくなる(刑罰不中則人無所措手足)。』今、吏の多くが不良で、ほしいままに喜怒を行い、あるいは罪によって裁くのではなく(案不以罪)、無罪の者を脅迫しており(迫脅無辜)、自殺に至らせている者は一歳(年)で断獄(死刑)よりも多くなろうとしている。これは人の父母になる者(皇帝)の意から甚だ離れている(甚非為人父母之意也)。有司(官員)は議してこれを糾挙(糾弾検挙)せよ(有司其議糾挙之)。」
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。
荊州豫州諸郡の兵が漊中蛮東漢章帝建初三年78年参照)を討って破りました。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と資治通鑑』からです。
夏五月辛亥(初三日)、章帝が詔を発しました「朕は直士を待ち望み(原文「朕思遲直士」。「遲」は「待つ」「期待する」の意味です)、側席して異なる意見を聞いている(原文「側席異聞」。「側席」は相手と正対せず、体を斜めに傾けて坐ることです。『資治通鑑』胡三省注は「側席は正坐しないこと。賢良に対する態度である(側席謂不正坐,所以待賢良也)」と解説しています)。先に至った者達はそれぞれ既に発憤吐懣し(憤懣を吐露し)、おおよそ子(汝等)大夫の志を聞いた。(朕は汝等を)皆、左右に置いて顧問省納(意見を求めて取り入れること)したいと思っているが、建武光武帝詔書でこうとも言った『堯が職によって臣を試す時は、言語筆札(文章)だけを参考にしなかった(堯試臣以職,不直以言語筆札)。』今、外官の多くが欠けているので(多曠)(汝等)全てを使って補任(補って任官すること)することができる(原文「並可以補任」。進言した直士を皇帝の周りに置きたいが、文書だけでなく実際の能力も確認する必要があるので、宮外の官に任命するという意味です)。」
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。
戊辰(二十日)、太傅趙熹が死にました。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』からです。
冬、始めて『月令』の「迎気楽」を行いました(気を迎える音楽を奏でました)
 
『月令』は『礼記』の一篇で、月ごとの行事や事象が書かれており、その中には音律の記述もあります。例えば「孟春(正月)」は「音は角、律は大蔟に中る」、「仲春(二月)」は「音は角、律は夾鐘に中る」、「季春(三月)」は「音は角、律は姑洗に中る」等です。
「角」は五音(宮)の一つで、「大蔟(太蔟)」「夾鐘」「姑洗」は十二律(黄鐘大呂太蔟夾鐘姑洗中呂蕤賓林鐘夷則南呂無射応鐘)に含まれます
『粛宗孝章帝紀』の注によると馬防が進言して「聖人が楽(音楽)を作ったのは、気を発散させて和を到らせ陰陽に順じるためです(宣気致和順陰陽)。臣の愚見によるなら、歳首を機に太蔟の律を発し、雅頌の音を奏でて和気を迎えるべきです」と言いました。
しかし当時は楽器を作る費用が高すぎたため、冬十月だけ「迎気楽」を行いました。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』からです。
この年、零陵が芝草(霊芝)を献上しました。
また、八匹の黄龍が泉陵に現れました。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。
班超(疏勒国にいます)が西域の平定を完遂させたいと思い、上書して出兵を請いました「臣が窺い見るに(臣竊見)、先帝は西域を開くことを欲したので、北は匈奴を撃ち、西は外国に使者を送り、鄯善、于がすぐに向化(帰順)しました。今、拘彌、莎車、疏勒、月氏烏孫、康居も再び帰附を願い、共に力を併せて亀茲を破滅させ、漢道を平通させること(安全に開通させること)を欲しています。もしも亀茲を得たら、西域で服さない者は百分の一のみになります。前世の議者は皆こう言いました『三十六国を取ったら匈奴の右臂(右腕)を断ったと号す(称す。原文「取三十六国号為断匈奴右臂」。『資治通鑑』胡三省注によると、西漢が公主を派遣して烏孫夫人とし、烏孫と兄弟の関係を結んだことが、匈奴の右臂を断ったと称されました。また、西漢哀帝時代、劉歆がこう言いました「武帝が五属国を立て、朔方を起こし、朝鮮を討ち、玄菟楽浪を設けて匈奴の左臂を断った。西は大宛を討ち、烏孫と結んで匈奴の右臂を裂いた。」匈奴は漢に向かって南面しているので、西が右になります)。』今、西域諸国では日が入る所から(太陽が没する西方から漢の地に至るまで)向化しない者はいません(自日之所入莫不向化)。大小が欣欣(喜ぶ様子)とし、貢奉が絶えず、ただ延耆(焉耆)、亀茲だけが服従していません。
臣は以前、官属三十六人と共に命を奉じて絶域に使いし(奉使絶域)、あらゆる艱難に遭遇しました(備遭艱戹)。その後、疏勒を孤守して今で五載(五年)になるので、胡夷の情数(状況)について、臣は頗る把握しています(臣頗識之)。その大小の城郭に問うと(問其城郭小大)、皆、漢に頼るのは天に頼るのと等しい(倚漢與依天等)と言っています。これが証明するのは(以是效之)、葱領(葱嶺)は通じさせることができ、亀茲は伐つことができる、ということです。
今、亀茲の侍子白霸を拝してその国王とし、歩騎数百で(亀茲に)送るべきです。諸国と兵を連ねれば、歳月の間に亀茲を禽(虜)にできます。夷狄を使って夷狄を攻めるのは最善の計です(計之善者也)。臣が見るに、莎車、疏勒の田地は肥広(肥沃広大)で、草牧が饒衍(繁茂)し、敦煌鄯善一帯とは比べものになりません(不比敦煌鄯善間也)。兵は中国の糧食を費やすことなく自足できます。そもそも姑墨、温宿(『資治通鑑』胡三省注によると、温宿国は温宿城が都です。長安から八千三百五十里離れています)の二王は特に亀茲によって置かれており、その種(同族)ではなく、しかも互いに厭苦しているので(既非其種,更相厭苦)、その形勢において必ず降る者がいます。もし二国が来降したら、亀茲は自ずから破れます。臣の章(上奏文)を下して行事(事の処理)の参考とすることを願います。誠に万分(万一の事)があっても、死んでも恨みません。臣超は区区(微小な様子)でありながらも特別に神霊を蒙っています(または「臣超はわずかながらも特に神霊を蒙っています」。原文「臣超区区特蒙神霊」)。心中で自分がまだ倒れることなく、この目で西域の平定を見て、陛下が万年の觴(祝賀の杯)を挙げ、祖廟に勲功を薦め(報告し)、天下に大喜を布くことを期待しています。」
 
上奏文が提出されると、章帝は班超が成功できると判断し、討議して兵を与えようとしました。
平陵の人徐幹が上書し、身を奮って班超を輔佐することを願ったため、章帝は徐幹を假司馬に任命しました。弛刑(刑を免じる代わりに兵役に就いた囚人)および義従(自ら従軍を欲した者。または漢に帰順した異民族)千人を班超に従わせます。
 
これ以前に、莎車は漢が兵を出さないと思い、亀茲に降りました。疏勒都尉番辰も漢に叛します。
ちょうど徐幹が疏勒に来たため、班超は徐幹と共に番辰を撃って大破しました。千余級が斬首されます。
 
後漢書・粛宗孝章帝紀』は「西域假司馬班超が疏勒を撃って破った」と書いています。この「疏勒」は「疏勒都尉番辰」を指すと思われます。
 
班超は亀茲への進行を欲しました。烏孫の兵が強いため、その力を利用するべきだと考えてまず朝廷に上書します「烏孫は大国で控弦(戦士)十万がおり、そのため武帝が公主を烏孫王の)妻とし、孝宣帝に至ってついにその用(力。協力)を得ました。今も使者を派遣して招慰し、共に力を合わせるべきです。」
章帝はこの意見を採用しました。
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代103 章帝(九) 廉范 81年