東漢時代103 章帝(九) 廉范 81年

今回は東漢章帝建初六年です。
 
東漢章帝建初六年
辛巳 81
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と資治通鑑』からです。
春二月辛卯(十七日)、琅邪王劉京(孝王)が死にました。
劉京は光武帝の子です。『後漢書光武十王列伝(巻四十二)』によると、劉京の死後、子の劉宇が継ぎました。諡号は夷王です。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』からです。
夏五月辛酉、趙王劉盱(または「劉栩」。節王)が死にました。
劉盱は劉良の子で、劉良は光武帝の叔父です。
後漢書宗室四王三侯列伝(巻十四)』によると、劉盱の死後、子の頃王劉商が跡を継ぎました。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と資治通鑑』からです。
夏六月丙辰(十五日)、太尉鮑昱が死にました。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と資治通鑑』からです。
辛未晦、日食がありました。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と資治通鑑』からです。
秋七月癸巳(二十二日)、大司農鄧彪を太尉に任命しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
武都太守廉范が蜀郡太守に遷されました。
成都は民も物も豊盛で、邑宇(邑内の家屋)がひしめき合っていたため、旧制では火災防止のために民の夜作(夜の労働)を禁止していました。しかし民が互いに隠蔽していたため、毎日、火災が起きました(焼者日属)
廉范は先令(今までの禁令)を撤廃し、ただ儲水(貯水)を徹底させるように厳しく命じました。
百姓はこれを便とし、歌を作りました「廉叔度(叔度は廉范の字です)はなぜ来るのが遅かったのだ。火を禁じることなく、民が安作する(安心して夜作する)。昔は襦(短衣)もなかったが、今は五枚の絝(袴)をもつ(廉叔度,来何暮。不禁火,民安作。昔無襦,今五絝)。」
 
[] 『資治通鑑』からです。
沛王等が入朝の準備をしたため(翌年に述べます)、章帝は謁者を送って貂裘(貂皮の衣。『資治通鑑』胡三省注によると、「貂」は「貂鼠」ともいい、身体が大きくて黄黒色で、胡の丁零国で生まれました)および太官の食物、珍果を下賜しました。
また、大鴻臚竇固に符節を持って郊外で出迎えさせました。
章帝自ら邸第(雒陽内の諸王の邸宅)を巡視してあらかじめ帷牀(帳と寝床)を準備し、銭帛、器物で充実していない物はありませんでした。
 
 
 
次回に続きます。