東漢時代104 章帝(十) 皇太子廃立 82年(1)

今回は東漢章帝建初七年です。二回に分けます。
 
東漢章帝建初七年
壬午 82
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と資治通鑑』からです。
春正月、沛王劉輔、済南王劉康、東平王劉蒼、中山王劉焉、東海王劉政、琅邪王劉宇が来朝しました。
劉輔、劉康、劉蒼、劉焉は光武帝の子、劉政は劉彊光武帝の元太子)の子、劉宇は劉京光武帝の子)の子です。
 
章帝は詔を発して沛王、済南王、東平王、中山王に賛拝不名の特権を与えました。
通常、臣下が入朝する時は、賛礼官(式典等を主持する官)が入朝した者の官名と姓名を称えました。「賛拝不名」というのは、賛礼官が直接姓名を呼ばず、官爵だけを称えることで、名を呼ばないのは元老功臣に対する特権とされました。
資治通鑑』胡三省注によると、四王は章帝の諸父(伯叔父)に当たるので、通常の礼とは異なる礼が用いられました。
 
四王が殿上に登って拝礼すると、章帝自ら答礼し、寵光栄顕が前代を越えていることを示しました。
四王が入宮する時はいつも輦(車)を送って迎えました。四王は省閣(宮門)に至ってやっと輦から降ります。
(四王が来ると)章帝は席から離れて様相を正し(興席改容)、皇后も宮内で自ら四王に拝礼しました。
四王は皆、鞠躬辞謝(「鞠躬」は曲身、お辞儀をすることです。「辞謝」は謙譲、辞退することです。ここでは章帝と皇后の厚礼に対する恐縮を表します)し、心中で不安を抱きました。
 
三月、大鴻臚が諸王を帰国させるように上奏しました。
章帝は特別に東平王劉蒼だけ京師に留めました。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と資治通鑑』からです。
以前、明徳太后(馬太后が章帝のために扶風の人宋楊の娘二人を後宮に入れて貴人にしました。大貴人(姉)が太子劉慶を生みます。
梁松の弟梁竦にも二人の娘がおり、どちらも貴人になりました。小貴人(妹)が皇子劉肇を生みます。
竇皇后は子がいなかったため、劉肇を自分の子として養いました。
 
宋貴人は馬太后に寵愛されましたが、太后が死んでから、章帝の竇皇后に対する寵愛がますます盛んになったため、竇皇后は母の沘陽公主(劉彊の娘)と共に宋氏を陥れる計を謀りました。
竇皇后は兄弟に命じて宮外で宋氏の纖過(些細な過失)を探させ、宮内では御者に命じて過ちがないか窺わせました(偵伺得失)
 
宋貴人が病を患った時、生兔(新鮮な莵)を食べたくなったため、家の者に兔を求めさせました。
資治通鑑』胡三省注によると、霜が降る前に獲った兔は美味とされました。また、兔は口に欠けがあり、尻に九つの孔があり、牝は雄の毛を舐めて妊娠し、口から子を生むと考えられていました(口有缺尻有九孔,舐毫而孕生子従口出)
 
竇皇后は宋貴人が兔を求めた事を「厭勝の術(人や物を制す呪術の一種)を為そうと欲している」と言って誣告しました。
章帝は太子劉慶を太子宮から出して承禄観に遷しました。『資治通鑑』胡三省注によると、中藏府(金銀貨物を管理する官府)に承禄署がありました。
 
夏六月甲寅(十八日)、章帝が詔を発しました「皇太子には失惑無常(精神が錯乱して常態を失うこと)の性があるので、宗廟を奉じることができない。大義の下では親情も滅ぼすものだ大義滅親)。降退(降格。廃位)ならなおさらである(況降退乎)。今、劉慶を廃して清河王にする。皇子劉肇は皇后に保育され、(皇后の)懐に抱かれて教育を受けたので(承訓懐袵)、今、劉肇を皇太子にする。」
 
宋貴人の姉妹は元の宮殿から丙舍に遷されました。
資治通鑑』胡三省注によると、丙舍は宮中の部屋です。宮中の部屋には甲乙丙といった序列がありました。または、南宮に丙署(官署名)があったので、丙舎は丙署の部屋かもしれません。
 
章帝は小黄門蔡倫(製紙技術を発明した宦官として知られています)に審問させました。二貴人は薬を飲んで自殺し、父の議郎宋楊は罷免されて本郡(故郷の郡)に帰りました。
劉慶はまだ幼少でしたが、嫌疑を避けて禍を畏れるということを知っていたため、敢えて宋氏について語りませんでした。章帝は劉慶を憐れむようになり、皇后に命じて衣服を太子と同等にさせました。
太子劉肇も劉慶を親愛していたため、宮内に入ったら部屋を共にし、出たら輿を共にしました。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と資治通鑑』からです。
己未(二十三日)、広平王劉羨(明帝の子、章帝の兄弟)を西平王に遷しました。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』からです。
秋八月、高廟で飲酎醸造を繰り返した酒を飲む儀式)を行い、光武皇帝、孝明皇帝を禘祭(天神や祖先に対する大祭)しました。
 
甲辰、章帝が詔を発しました「『書尚書』にはこうある『祖先が到来する(原文「祖考来假」。但し、『尚書』では「祖考来格」です)。』明哲の祀(道理に通じた正しい祭祀)には祖先の神霊が到るのである。予末小子(私)は質も菲薄(微薄)だが、先帝の烝烝(徳が厚い様子)の情を仰いで思い、先日、禘祭を修めて孝敬を尽くした。朕は昭穆の序(宗廟の秩序)を得識(理解)して遠祖の思いに寄せる(先祖の思いに頼る?先祖に思いを寄せる?原文「寄遠祖之思」)。今年、大礼を再び挙げて先帝の坐を加え(『粛宗孝章帝紀』の注によると、顕宗明帝の神坐が宗廟に加えられました)、悲傷して懐かしんだ(悲傷感懐)。来る者を迎えるのは楽しく、去る者を送るのは哀しいものだ(楽以迎来,哀以送徃)。生きている時と同じように死者を祭っても(祭亡如在)、空虚で抑制するところを知らず(空虚不知所裁)(先帝が)祭祀を受け入れることを望むだけだ(庶或饗之)。どうして克慎粛雍の臣(克己、慎重かつ恭敬で睦まじい臣)がおらず、辟公(諸侯)の助けがないことが許されるだろう(豈亡克慎粛雍之臣,辟公之相)(百官諸侯が)皆、朕を助けて依依(思慕の様子。ここでは先帝を思念するという意味です)としている。今、公に銭四十万を、卿にはその半分を下賜し、百官執事にもそれぞれ差をつけて与える。」
 
 
 
次回に続きます。