東漢時代105 章帝(十一) 巡行 82年(2)
今回は東漢章帝建初七年の続きです。
飲酎の儀式の後、有司(官員)が再び東平王・劉蒼を帰国させるように上奏しました。
章帝はやっと同意し、手詔(皇帝が自ら書いた詔)を劉蒼に下賜して言いました「骨肉の天性は誠に遠近によって親疏となることはない。しかし幾度もその顔を見たら、情が昔時よりも重くなった(然数見顔色情重昔時)。王が(京師に留まって)久しく労累していることを念じ、還って休めるようにさせたいと思ったので、大鴻臚の奏(劉蒼を帰国させるという上奏)に署名しようと欲したが、筆を下すのが忍びず、顧みて小黄門に(この手詔を)授けた。心中で恋恋とし(中心恋恋)、惻然(悲傷)は言葉にすることができない。」
車駕(皇帝の車。ここでは章帝を指します)が自ら祖送(餞別)し、涙を流して別れました。
また、乗輿、服御、珍宝、輿馬を下賜し、これら以外に与えた銭布も億万(銭)を数えました。
章帝が河内に至って詔を下しました「車駕が秋稼(秋の作物)を巡視し、收穫を観察して郡界に到った。皆、精騎で軽行せよ。他の輜重は必要ない。また、このために道橋を修築してはならず、城郭から遠く離れているのに吏を派遣して逢迎してもならず、(皇帝の)起居を伺うために(官員が)頻繁に出入りして煩擾(雑乱として煩わしいこと)と為ってもならない(刺探起居出入前後以為煩擾)。行動は省約(簡単節約)に務め、脱粟(脱穀した米)・瓢飲(一瓢の水。「瓢」は瓢箪を半分に割って作った杓です)を得られないことだけを心配せよ(但患不能脱粟瓢飲耳)。通過する場所では貧弱に利があることを欲し、詔書に違えてはならない。」
章帝が淇園を遊覧しました。
そこで魏郡の守令(太守・県令)以下、三老、門闌(門衛)、走卒に至るまで労饗(労いの宴を開くこと)し、それぞれに差をつけて銭を下賜しました。
また、常山、趙国の吏人を労って褒賞し、元氏(地名)の租賦を三年間免除しました(復元氏租賦三歳)。
辛卯(二十七日)、章帝が皇宮に還りました。
章帝が天下に詔を発しました。天下の繫囚(囚人)から死一等を減らし、笞打ちを加えず、辺戍(辺境の守備)に向かわせます。妻子で自ら従って辺境に遷った者は、所在地の籍に入れさせました(占著所在)。父母や同産(兄弟)が従うことを欲したら全て許可します。
殊死(死罪)を犯した者(上述の内容で囚人から「死一等」が減らされています。この「殊死を犯した者」がどのような囚人を指すのかはよくわかりません。死一等を減らしてからまた死罪を犯した者(例えば「乏軍興」によって裁かれた者)かもしれません。あるいは、和帝永元八年・96年の詔で囚人から死一等を減らした時、大逆の者は宮刑になっているので、この「殊死を犯した者」も大逆の罪を犯した者かもしれません)は、全て集めて蚕室に下し(蚕室に入れられたら宮刑に処されます)、女子も宮にしました(女子の宮刑は詳細が分かっていません)。
鬼薪、白粲以上の刑で繋がれている囚人は、皆、本の刑からそれぞれ一等を減らして司寇作に移されました(輸司寇作)。
亡命(逃亡)している者に贖罪させ、死罪に当たる者は縑(絹の一種)を二十匹、右趾から髠鉗城旦・舂に当たる者は十匹、完城旦から司寇に当たる者は三匹を納めさせました(それぞれの刑については光武帝中元二年・57年に書きました)。
蕭何の末孫・蕭熊を酇侯に封じます。
その後、槐里(周代は犬丘といいましたが、秦が廃丘に改め、漢が槐里に改めました)、岐山に進みました。
岐山が酒罇(樽)に似た銅器を得て章帝に献上しました。
また、白鹿を獲ました。
章帝が言いました「上には明天子(英明な天子)がなく、下には賢方伯(賢明な地方の長)がいない。『人に善行がなかったら一方で怨みが積もる(人之無良,相怨一方)』という(『詩経・小雅・角弓』に「民之無良,相怨一方」という句があります)。これらの器はなぜ来たのだ。」
そこで舟を造って涇水から還ります。通過する場所ではいつも郡県の吏人を集めて慰労の宴を開きました(労賜作楽)。
十一月、詔を発して河東の守・令・掾以下の官員を労賜(慰労褒賞)しました。
章帝が看病のために名医や小黄門を駆けさせました。使者の冠蓋が絶えることなく道に連なります。
また、駅馬を置いて起居を問い、千里を越えて伝達させました。
『後漢書・粛宗孝章帝紀』と『後漢書・光武十王列伝(巻四十二)』は劉蒼の諡号を「憲王」としていますが、『資治通鑑』では「献王」です。『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、『資治通鑑』は袁宏の『後漢紀』に従っています。
この年、京師と郡国で螟(害虫)の被害がありました。
次回に続きます。