東漢時代107 章帝(十三) 竇氏 83年(2)

今回は東漢章帝建初八年の続きです。
 
[(続き)] 馬氏が罪を得てから、竇氏がますます貴盛(高貴旺盛)を得ました。
竇皇后の兄竇憲が侍中虎賁中郎将になり、弟竇篤が黄門侍郎になり、共に宮省(宮内)に侍って賞賜が積み重ねられます。二人は賓客と交わることを好みました。
 
司空第五倫が上書しました「臣が伏して見るに、虎賁中郎将竇憲は椒房の親(皇后の親族)という立場で禁兵を典司(主管)して省闥(宮中)に出入りしており、年が盛んで志が美しく、卑譲(謙遜謙虚)で善を楽しんでおり、これは誠に士を愛して交結する方法です(此誠其好士交結之方)。しかし出入りしている貴戚の者達は多くが瑕釁禁錮の人(過失を犯して政界に属す機会を失った者)に類し、守約安貧の節(制約を守って貧困に安んじることができる節操)が特に欠如しています(類多瑕釁禁錮之人,尤少守約安貧之節)。士大夫の中でも志がない徒が互いに売り込み(更相販売)、その門に雲集したら、恐らく驕佚(驕奢放縦)が生まれる所となります。三輔で論議している者の中にはこのように言う者もいます『貴戚の地位にある者を廃錮(罷免禁錮したら、また貴戚によって罪を洗い流させるべきだ。酔いを覚ますのに酒を使うのと同じである(原文「以貴戚廃錮,当復以貴戚浣濯之,猶解酲當以酒也」。竇氏の者が罪を犯しても竇氏の他の者が補えばいい、という意味です。竇氏に迎合する言葉です)。詖険趣勢の徒(奸佞陰険で権勢におもねる者)は誠に親近してはなりません。臣は陛下と中宮(皇后)が厳しく竇憲等に勅戒し、門を閉ざして自分を守らせ(謹慎させ)、妄りに士大夫と交通(交流)させることなく、(禍が)芽生える前に防ぎ、形になる前に考慮すること(防其未萌,慮於無形)を愚願します。竇憲に永く福禄を保たせ、君臣が交歓し、纖介の隙(わずかな間隙、対立)がないこと、これが臣の至願とするところです。」
 
竇憲には宮掖後宮の声勢(声望権勢)があったため、諸侯王や公主から陰馬諸家に及ぶまで、畏れ憚らない者はいませんでした。
以前、竇憲が低価で沁水公主の園田を強引に買い取ろうとしました。『資治通鑑』胡三省注によると、沁水公主は明帝の娘です。
公主は圧力を受けて畏れを抱き、逆らうことができません。
後に章帝が外出して園を通りました。章帝が園を指さして竇憲に質問しましたが、竇憲は左右の者に命じて答えさせませんでした(原文「陰喝不得対」。「陰喝」について『後漢書竇融列伝(巻二十三)』の注では「噎塞(言葉が詰まること)」の意味としていますが、『資治通鑑』は「陰喝」を「密訶」とし、「章帝が質問した時、秘かに左右の者に命じて答えさせなかった(密訶左右不得対)」と解説しています。下の章帝の言葉で「鹿を指して馬と為す」という趙高の故事が引用されているので、左右の者に偽らせたと解釈する方が相応しいようです)
しかし暫くして竇憲が沁水公主の園田を低価で奪ったことが発覚しました。
章帝は激怒して竇憲を招き、厳しく譴責して「以前、公主から奪った田園を通った時の事を深く考えたが(深思前過奪主田園時)、なぜ趙高が鹿を指して馬と為したこと(秦二世皇帝三年207年参照)よりもひどい手段を取ったのだ(何用愈趙高指鹿為馬)。久しく念じると人を驚怖させる(この事をよく考えると恐ろしくなる)。昔、永平中(明帝時代)は、常に陰党、陰博(『資治通鑑』胡三省注によると、陰興の子です)、鄧疊の三人(三人とも外戚です)に命じて互いに糾察(糾弾監察)させたので、諸豪戚で敢えて法を犯す者はいなかった。しかし今は貴主(尊貴な公主)でも枉奪侵奪に遭うのだから、小民ならなおさらであろう。但し、国家が竇憲を棄てるのは、孤雛腐鼠のようなものである(一羽の雛や鼠の腐った死骸を棄てるのと同じである)」と言いました。
竇憲は大いに懼れ、皇后も毀服(服の等級を落とすこと)して深く謝罪したため、章帝は久しくしてやっと怒りを解き、田を公主に返還させました。
章帝が竇憲の罪を裁くことはありませんでしたが、重任も与えませんでした。
 
[] 『資治通鑑』からです。
下邳の人周紆が雒陽令になりました。
周紆は車を下りると(着任すると)まず大姓の主名(大族、豪族の主の名)を問いました。
官吏が閭里の豪強を数え上げて答えます。
すると周紆は厳しい声で怒ってこう言いました「本来質問したのは、馬竇等のような貴戚である(貴戚若馬竇等輩)。どうしてこのような売菜傭(野菜を売る者)を知ることができるか(把握している暇があるか。知る必要があるか。原文「豈能知此売菜傭乎」)。」
この後、周紆管轄下の官吏はその風旨(意旨。意図)に従い(部吏望風旨)、争って激切(激烈)によって事を処理しました。貴戚が跼蹐(「跼」は腰を曲げること、「蹐」は足がすくむことで、畏れや不安の様子です)して京師が粛清されます。
 
ある夜、竇篤(竇皇后の弟)が止姦亭に至りました。すると亭長霍延が剣を抜いて竇篤に近付き、存分に罵りました(肆詈恣口)
竇篤はこれを上書して章帝に報告しました。
章帝は詔を発して司隸校尉と河南尹を招き、譴問(譴責、責問)を受けさせために尚書に送りました。また、剣戟士(衛士。『資治通鑑』胡三省注によると、左右都候の指揮下に属します)を派遣して周紆を逮捕しました。周紆は廷尉の詔獄に送られます。
数日後、赦されて獄から出ました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
章帝が班超を将兵長吏に任命し(『資治通鑑』胡三省注によると、大将軍が長史と司馬を置き、長史の中で兵を指揮する者は将兵長史といいました)、徐幹を軍司馬に任命しました。
また別に衛候李邑を派遣して烏孫使者を護送させました(章帝建初五年80年に班超が烏孫との同盟を進言し、章帝が同意しました。その後、両国の使者が行き来しており、当時は烏孫の使者が雒陽にいたようです)
 
李邑が于に到着した時、ちょうど亀茲が疏勒(班超がいます)を攻撃したため、恐懼して前に進もうとせず、上書して西域の功を完成させることはできないと述べました。そのうえ班超を激しく誹謗して「(班超は)愛妻を擁して愛子を抱き、外国で安楽して内(中原)を顧みる心がありません」と報告します。
それを聞いた班超は嘆息して「この身は曾参ではないが、三至の讒に遭った(曾参は孔子の弟子で孝子として知られていました。曾参の母は、曾参が人を殺したという噂を聞き、二回目までは信じませんでしたが、三回目にはそれを信じました)。当時(当今の皇帝)に疑われることを恐れる(恐見疑於当時矣)」と言い、妻を去らせました。
 
章帝は班超の忠心を知っていたため、李邑を厳しく責めてこう言いました「たとえ班超が愛妻を擁して愛子を抱いていたとしても、思帰の士(帰郷を望む士)千余人がどうして全て班超と同心になれるか!」
章帝は李邑に命じ、班超を訪ねて節度(指揮)を受けさせました。
また、班超にも詔を発しました「もし李邑の任が外にあるなら(西域で任務を与えられるなら。原文「任在外者」)、留めて共に事を行え(便留與従事)。」
 
班超は李邑に命じて烏孫の侍子を率いて京師に還らせました。
徐幹が班超に言いました「李邑は以前、自ら君(あなた)を讒言し(前親毀君)、西域の事業を失敗させようとしました(欲敗西域)。今、なぜ詔書に則って彼を留め、改めて他の吏を派遣して侍子を送らせないのですか(徐幹は李邑が帰国してから皇帝の傍で讒言することを恐れています)。」
班超が言いました「汝の言はどうして見識が狭いのだ(是何言之陋也)。李邑が超(私)を讒言したから、今、彼を派遣したのだ。内を省みて慚愧することがないのに、どうして人の言を憂いるのだ(自分を顧みてやましいことがなかったら、讒言を畏れる必要はない。原文「内省不疚,何卹人言」)。自分を満足させるために彼を留めたら忠臣ではない(快意留之非忠臣也)。」
 
[] 『資治通鑑』からです。
章帝が侍中会稽の人鄭弘を大司農に任命しました。
 
以前は交趾七郡(『資治通鑑』胡三省注によると、交趾州には南海、蒼梧、鬱林、合蒲、交趾、九真、日南の七郡が属します)が貢献転運(貢物の輸送)をする時、全て東冶(『資治通鑑』胡三省注によると、東冶県は会稽郡に属します)から海を渡って来ました。
しかし風波が強くて艱難険阻だったため、沉溺(沈没)が相次ぎました。
そこで鄭弘が零陵、桂陽に嶠道(山嶺の道)を開くように上奏しました。
その結果、障害が無くなって(夷通)この道が常路になりました。
資治通鑑』胡三省注は「西漢武帝が路博徳を派遣して南越を討った時、桂陽を出て湟水を下ったので武帝元鼎五年112年参照)、以前にもこの路はあった。鄭弘は特にこの道を開いて障害を無くしたのである(特開之使夷通)」と解説しています。
 
鄭弘が在職して二年の間で億万を数える出費が削減されました。
天下を旱害が襲い、辺境から警報が届き、民の食糧が不足しても、帑藏(国庫)には大量な蓄積があります。
鄭弘はまた貢献(地方からの貢物)を省き、徭費(徭役にかかる費用)を減らして飢民の利とするべきだと上奏しました。
章帝はこれに従いました。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』からです。
この年、京師と郡国で螟(害虫)の被害がありました。
 
 
 
次回に続きます。