東漢時代108 章帝(十四) 韋彪 84年(1)

今回は東漢章帝元和元年です。三回に分けます。
 
東漢章帝元和元年
甲申 84
八月に建初九年から元和元年に改元します。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』からです。
春正月、中山王劉焉が来朝しました。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』からです。
日南徼外(界外)の蛮夷が生犀(生きた犀)と白雉を献上しました。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。
閏正月辛丑(十五日)、済陰王劉長(悼王)が死にました。
 
劉長は明帝の子です。『後漢書孝明八王列伝(巻五十)』によると、劉長は京師で死に、子がいなかったため済陰国は廃されました。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』からです。
二月甲戌、章帝が詔を発しました「王者には八政があり、食をもって本となす(『尚書洪範』に「八政(八方面の施政)」の記述があり、「食」を筆頭において政治の根本としています)。よって古の者は耕稼の業(農業)を急務とし、耒耜(農具)の勤を到らせ、儲蓄(貯蓄)を節約して用いることで凶災に備え、そのおかげで凶作の年になったとしても(歳雖不登)、人に飢色がなかった。しかし牛疫が発生して以来、穀食穀物食糧)が立て続けに少なくなった。誠に吏の教化がまだ至らず(吏教未至)、刺史二千石が(食がないことを)負としていない(憂いていない)からである。よってここに郡国に命じる。田を所有せず、它界に遷って肥饒に就くことを欲する者(他の地域の肥沃な地に遷りたいと思っている者)を募り、全てそれを聴け(移住に同意せよ)(それらの民が新しい)所在地に到ったら、公田を下賜し、(彼等のために)耕傭小作人を雇い、穀物の種や食料を貸し出し(賃種𩜋、田器(農具)を貸し与えよ(貰與田器)。五年の田租を徴収せず(勿收租五歳)、三年の筭人頭税を免除する。後に本郷に帰ることを欲した者も禁じてはならない。」
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月己卯(二十四日)、東平国を分けて献王蒼の子劉尚を任城王に封じました。
 
少し解説します。
前年、東平王劉蒼(「献王」。または「憲王」)が死に、子の劉忠が跡を継ぎました。劉忠の諡号は懐王です。
本年、懐王劉忠の弟劉尚も任城王に封じられました。
後漢書光武十王列伝(巻四十二)』によると、章帝は東平国を分けて劉忠の弟劉尚を任城王に封じ、他の五人(劉尚以外の五人の弟)も列侯に封じました。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と資治通鑑』からです。
六月辛酉(初七日)、沛王劉輔(献王)が死にました。
 
後漢書光武十王列伝(巻四十二)』によると、劉輔の子劉定が跡を継ぎました。諡号を釐王といいます。
 
[] 『資治通鑑』からです。
当時、上書した者の多くがこう言いました(陳事者多言)「郡国が貢挙(人材を推挙すること)していますが、ほとんどが功次(功績の大小)に基いていないため(率非功次)、守職(職責を全うすること)がますます散漫になり(官吏がますます職責を軽んじるようになっており。原文「守職益懈」)、吏事(官吏の政務)がしだいに疎かになっています(吏事寖疏)。咎は州郡にあります。」
 
章帝が詔を発して公卿朝臣に討議させました。
大鴻臚韋彪が建議して言いました「国とは簡賢(賢才を選ぶこと。「簡」は「選抜」の意味です)を務(要務)とし、賢とは孝を首とするものです。よって忠臣とは必ず孝子の門において求めるものです(求忠臣必於孝子之門)。人の才行(能力と素行)とは、両方を兼備できることは少なく(人才行少能相兼)、そのため、孟公綽は趙魏の老(主要な家臣。恐らくここでは実際の政務を行わない名誉職のような地位を指します)になったら余裕があっても、滕薛の大夫にはなれませんでした(原文「孟公綽優於趙魏老,不可以為滕薛大夫」。『論語』の故事です。孟公綽は魯の大夫で、趙と魏は大国晋の卿が治める邑です。孟公綽は品行が正しく寡欲だったので、大国の卿に仕えて「老」になったら余裕があっても、滕薛のような小国で大夫になったら職責が複雑なため能力がともなわないとみなされました)。忠孝の人は心持が仁厚に近く(持心近厚)、鍛鍊の吏(厳酷な官吏)は心持が酷薄に近いものです(持心近薄)。士は才行(能力と品行)を優先するべきであり、閥閲だけに頼ってはなりません(原文「士宜以才行為先,不可純以閥閲」)「閥閲」は家門、または経歴です)。そして最も重要なのは(然其要帰)、二千石の人選にあります。二千石が賢才なら、貢挙が全てその人を得られます(二千石を正しく選べば、二千石も必ず相応しい人材を推挙するようになります)。」
 
韋彪は別にも上書してこう言いました「天下の枢要(中心)尚書にあります尚書は公卿・二千石の上書や外国の出来事を全て把握しています)尚書の人選をどうして重視せずにいられるでしょう(豈可不重)。しかし最近は多くが郎官からこの地位に超升しており(抜擢されており)、文法(法律)に曉習(通暁。習熟)して応対に長じていますが、些事にこだわる小慧(小知恵)に過ぎず、大能(大きな才能がある者)はほとんどいません(察察小慧類無大能)。嗇夫によるとっさの回答を鑑み(原文「鑒嗇夫捷急之対」。西漢文帝時代、上林尉が文帝に質問されても答えられず、傍にいた嗇夫(属官)が代わりに答えました。文帝は嗇夫を称賛して抜擢しようとしましたが、張釋之が弁舌を得意とする者を重用するべきではないと言って諫めました。西漢文帝前三年177年参照)、深く絳侯(周勃)の木訥(弁舌が下手なこと)の功(周勃は弁舌が苦手でしたが漢朝建国時に大功を立てました)を思うべきです。」
 
章帝はこれらの意見を全て採用しました。
韋彪は韋賢西漢宣帝時代の丞相)の玄孫です。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と資治通鑑』からです。
秋七月丁未(二十三日)、章帝が詔を発しました「律は『拷問では榜棍棒(鞭)(長時間立たせて審問すること)の手段だけを使うことができる(掠者唯得榜笞立)』と言っており、また、『令丙』では箠棍棒や鞭)の長短に数(決まり)がある(『資治通鑑』胡三省注によると、『令丙』の「丙」は法令の順番です。『令甲』『令乙』『令丙』がありました。箠に関しては、西漢景帝が『箠令』を定めました。西漢景帝中六年144年参照)。しかし先の大獄以来(『資治通鑑』胡三省注によると、楚王劉英(明帝永平十三年70年参照)等の獄を指します)、拷問の多くが苛酷になり(掠者多酷)、鉆鑽(肉や骨を削る酷刑)の属(類)は惨苦に極みがない(惨苦無極)。その痛毒を念じると、怵然(恐れる様子)として心を動かされる。『書尚書』には『鞭を官刑(政府が決めた正式な刑罰)にする(鞭作官刑)』とあるが、このような状態を言っているのか(豈云若此)。よって、秋冬の治獄(審理判決)に及んだら、禁(禁止事項)を明らかにするべきである。」
 
漢代は植物が芽生えて繁茂する春夏には刑罰を行わず、花が枯れて実が落ちる秋冬になってから判決を下して刑を執行しました。刑罰よりも仁徳を重んじるという思想と、農業を重視する姿勢が元になっています。
章帝が「秋冬の治獄に及んだら」と言っているのはこのためです。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。
八月甲子(十一日)、太尉鄧彪を罷免し、大司農鄭弘を太尉に任命しました。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。
癸酉(二十日)、詔を発して元和に改元しました。
『粛宗孝章帝紀』から詔の内容です「朕の道化(教化)は不徳で、吏政(政事)が和を失い、元元(民衆)を諭すことができず(元元未諭)、罪を下に至らせている。寇賊の争心が止むことなく、辺野の邑屋(村の家屋)も修められない(修築されない)。永く庶事(政務、政治)を考え、(政事の)中正について考察したいと思い(思稽厥衷)、凡百の(多数の)君子と共にその道を拡大する(共弘斯道)。心中は悠悠(不安な様子。思案している様子)としており(中心悠悠)、何に頼ればいいのだろうか(将何以寄)。ここに建初九年を改めて元和元年とする。郡国と中都官(京師の官)は繫囚(囚人)から死一等を減らし、笞を加えず、辺県に送れ。妻子が自ら従ったら、所在地の籍に入れよ(占著在所)。殊死(死罪)を犯した者は全て集めて蚕室に下し、女子も宮宮刑にする。鬼薪、白粲以上の繫囚(囚人)は皆、本の罪から一等を減らして司寇作に移す。亡命(逃亡)している者には贖罪させ、(贖罪の内容は)それぞれに差を設ける東漢章帝建初七年82年参照)。」
 
[十一] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。
丁酉(中華書局『白話資治通鑑』は「丁酉」を恐らく誤りとしています)、車駕が南巡しました。
章帝が詔を発しました「経由する道の上にある州県は、儲跱(物資の蓄え。事前の準備)を設けてはならない。司空に命じ、自ら徒を指揮して橋梁を修築させる(支拄橋梁)。使者を送って奉迎したり(皇帝を迎え入れたり)、起居を伺ったら(探知起居)、二千石(郡太守)が坐に当たる(二千石の罪を問う。二千石が罪に坐す。原文「二千石当坐」)。」
 
章帝は鰥寡(配偶者を失った男女)孤独(孤児や身寄りがない老人)および(貧困のため)自存できない者に一人当たり五斛の粟を与えました。

 
 
次回に続きます。