東漢時代109 章帝(十五) 朱暉 孔僖 84年(2)

今回は東漢章帝元和元年の続きです。
 
[十二] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』からです。
九月乙未(十二日)、東平王劉忠が死にました。
後漢書光武十王列伝(巻四十二)』によると、劉忠の諡号は懐王です。子の孝王劉敞が跡を継ぎました。
 
[十三] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。
辛丑(十八日)、章帝が章陵に行幸し、旧宅・園廟を祀って宗室の故人に会いました。それぞれ差をつけて賞賜を与えます。
 
冬十月己未(初七日)、章帝が江陵に進みました。
詔を発して廬江太守に南嶽を祀らせ、また、長沙と零陵の太守に長沙定王(劉発。西漢景帝の子)、舂陵節侯(劉賈。劉発の子)、鬱林府君(劉外。劉賈の子)を祀らせました。
 
章帝が引き返して宛を行幸しました。
そこで前臨淮太守宛の人朱暉を招いて尚書僕射に任命しました。
 
朱暉は臨淮にいた時、善政を行いました。そこで民が朱暉を称える歌を作りました「強直で自由に振る舞う南陽の朱季(朱暉。『後漢書朱楽何列伝(巻四十三)』によると、朱暉の字は文季といいます。また、宛県は南陽郡に属します)。吏がその威を畏れ、民はその恵みを懐かしむ(強直自遂,南陽朱季,吏畏其威,民懐其恵)。」
 
章帝が宛に来た時、朱暉は刑に坐して免官され、家に住んでいました。『資治通鑑』胡三省注によると、長史(県の高官)を拷問して獄中で死なせてしまったため、州が朱暉を罷免しました。
章帝は朱暉の善政を聞いたため、招いて任用しました。
 
十一月己丑(初七日)、車駕(章帝)が皇宮に還り、従者にそれぞれ差をつけて賞賜を与えました。
 
[十四] 『資治通鑑』からです。
尚書張林が上奏しました「県官(朝廷)の経用(経費)が不足しているので、自ら塩を煮るべきです(官府が塩を生産するべきです。原文「自煮塩」)。また、武帝の均輸の法を復脩(修復。恢復)するべきです。」
 
尚書僕射・朱暉が頑なに反対して言いました「均輸の法は賈販(商業)と違いがなく、塩利が官に帰したら下民が窮怨(困窮怨恨)します。誠に明主が行うべきことではありません。」
章帝は激怒して諸尚書を厳しく譴責しました(章帝は張林の意見に賛成していました。章帝によって塩鉄専売が再開されます。しかし章帝を継いだ和帝の時代になって、塩鉄に関する禁令が改めて撤廃されます。章帝章和二年・88年に再述します。あるいは、尚書が上奏して尚書僕射が反対したため、激しく怒ったのかもしれません)
 
朱暉等は皆、自ら獄に繋がれました。
三日後、章帝が詔敕詔勅を発して朱暉等を釈放し、こう言いました「国家は喜んで駁義(駁議。反対意見)を聞く。黄髪(老人。朱暉を指します)に愆(罪)はない。ただ詔書(譴責の言葉)の度が過ぎただけだ。なぜ自ら繋がれたのだ。」
朱暉は病が篤いと称して再び署議しなくなりました(上奏しなくなりました。上奏する文章(奏議)には署名が必要でした。これを「署議」といいます。転じて「署議」は「上奏」そのものを指すようになりました)
 
尚書令以下が恐れて朱暉に言いました「今、譴責に臨んでいるのに(臨得譴譲)、どうして病と称すのですか。この禍は小さくありません(不細)。」
朱暉が言いました「行年(経歴した年。年齢)八十になり、恩を蒙って機密(中枢。尚書にいることができたので、死をもって報いるべきだ。もしも心中で正しくないと知りながら(心知不可)(陛下の)意旨に従って雷同したら、臣子の義に背くことになる。今は耳目が聞見するところがないので(耳も聞こえず目も見えないので)、伏して死命を待つ。」
朱暉は口を閉ざして何も言わなくなりました。
 
尚書はどうするべきか分からず、共に朱暉を弾劾する上奏を行いました。
しかし章帝は怒りを解いて(または「朱暉の意図を理解して」。原文「帝意解」)、この事を処理しませんでした。
 
数日後、章帝が詔を発しました。直事郎(宿直の郎官)に朱暉の起居を尋ねさせ、太医に病を看させ、太官に食事を下賜させます。
朱暉は病床から起き上がって謝辞を伝えました(『資治通鑑』胡三省注は朱暉のこの姿を「強直で自由に振る舞っている(強直自遂)」と評価しています)
朝廷は再び銭十万と布百匹、衣十領(衣服十揃え)を下賜しました。
 
[十五] 『資治通鑑』からです。
魯国の人孔僖と涿郡の人崔駰は共に太学で遊学し、互いに論じてこう言いました「孝武皇帝は天子になったばかりの時、聖道を崇信して五六年の間で文(文帝と景帝)に勝ったと号された(称された)。しかし後になると恣己(放縦、わがまま)になり、かつての善政を忘れてしまった。」
これを聞いた隣の部屋の太学梁郁が上書して二人を訴えました「崔駰と孔僖は先帝を誹謗して当世を刺譏(風刺)しています。」
この事は有司に下して審問されることになりました。
 
崔駰は官吏を訪ねて審問を受けましたが、孔僖は書を送って訴えました「誹謗というものは、実はその事がなく、偽って誣告を加えること(虚加誣之)をいうのです。たとえば孝武皇帝に至っては、政の美悪は漢史において顕著であり、日月のように明らかです(坦如日月)。これは書伝の実事を直接語ったのであり、虚謗(虚偽誹謗)ではありません。帝というのは、善を為しても悪を為しても、天下で知らない者はなく、これは全てそれ(批難)を招く原因があるので、人を誅しては(譴責しては)ならないのです(『資治通鑑』の原文は「夫帝者,為善為悪,天下莫不知,斯皆有以致之,故不可以誅於人也」です。『後漢書儒林列伝上(巻七十九上)』には「帝というのは、善を為したら天下の善が全て帰し、不善なら天下の悪が集まります。これは全てそれを招く原因があるので、人を誅してはならないのです(夫帝者為善,則天下之善咸帰焉。其不善,則天下之悪亦萃焉。斯皆有以致之,故不可以誅於人也)」と書かれています)
そもそも、陛下が即位して以来、政教に過ちがなく、徳沢(恩恵)が加えられていることは、天下がよく知っています(天下所具也)。臣等だけがどうして譏刺(風刺)するのでしょう。また、もしも非とするところが(批判の内容が)事実だったら(假使所非実是)、本来、悛改(反省して改めること)するべきであり、たとえ不当だったとしても(批判が事実でなくても。原文「儻其不当」)、含容(包容)するべきであって、何の罪になるのでしょうか。陛下は大数(大計)を根本から探求して深く計ることなく(不推原大数深自為計)、いたずらに私忌(個人的に嫌うこと)をほしいままにさせて気持ちを満足させていますが(徒肆私忌以快其意)、臣等が戮を受けても、死ぬなら死ぬだけです(死即死耳)。しかし天下の人を顧みるに、必ず視線を転じて考えを変え(原文「回視易慮」。孔僖等を罰したら民衆が今まで抱いていた章帝に対する高い評価を変えることになります)、この事によって陛下の心を窺い、今後もし不可の事を見たとしても、再び発言する者はいなくなるでしょう(終莫復言者矣)
桓公は自ら先君の悪を挙げて管仲に語り(原文「斉桓公親揚其先君之悪以唱管仲」。斉桓公管仲を迎え入れてから先君である斉襄公の悪政について語りました。これに対して管仲が覇業について述べました。ここでの「唱」は「陳述説明」の意味です)、その後、群臣が心を尽くせるようになりました(斉桓公が自ら先君の罪悪を明らかにしたので、群臣が尽力しました)。今、陛下は十世離れた武帝(『資治通鑑』胡三省注によると、武帝の後、昭帝、宣帝、元帝、成帝、哀帝、平帝、光武帝、明帝を経由して章帝になったので、ちょうど十世に当たります)のために遠い実事(事実)を隠そうと欲していますが、桓公と異なるのではありませんか。臣は有司(官吏)が突然(臣を)害し(卒然見構)(臣が)恨みを抱いて冤罪を蒙りながら(銜恨蒙枉)自ら弁明することができず(不得自敍)、後世の論者に勝手に陛下を(斉桓公等の明君と)比較させることを恐れます。子孫にもまた遡って(陛下の悪を)隠蔽させるというのでしょうか(寧可復使子孫追掩之乎)。よって(官吏を訪ねるのではなく)謹んで闕を訪ね、伏して重誅を待ちます。」
上書が提出されると章帝はすぐに詔を発して不問とし、孔僖を蘭台令史に任命しました。
資治通鑑』胡三省注によると、蘭台令史は秩六百石で、奏文や書籍を管理しました。
 
 
 
次回に続きます。