東漢時代110 章帝(十六) 毛義と鄭均 84年(3)

今回で東漢章帝元和元年が終わります。
 
[十六] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。
十二月壬子(初一日)、章帝が詔を発しました「『書(『尚書康誥』が元になっていますが、完全には一致しません)』はこう言っている『父に慈愛がなく、子が不敬で、兄に友愛がなく、弟が恭順でなかったら、互いに親近になることはない(父不慈,子不祗,兄不友,弟不恭,不相及也)。』以前は妖言大獄が広遠に及ぶことになり、一人が罪を犯したら禁禁錮が三属(『資治通鑑』胡三省注によると、「三属」は「三族」で、父の家族、母の家族および妻の家族を指します)に及んで、王朝に仕えることができなくなった(原文「莫得垂纓仕宦王朝」。「垂纓」は恐らく入朝する時の冠です。「仕宦」は「仕官」です)。もし賢才がいても、終生用いることがないので(没歯無用)、朕は甚だこれを憐れんでおり、また、これでは更始(更新。公正の機会)を与えることにならない。よって、以前、妖悪(妖言、悪行)によって禁錮された者は、全てこれを撤廃して(一皆蠲除之)弃咎の路(悪を棄てる道)を明らかにし、ただ宿衛の職だけに就けないことにする(但不得在宿衛而已)。」
 
[十七] 『資治通鑑』からです。
廬江の人毛義と東平の人鄭均はどちらも行義(義行)によって郷里で称賛されていました。
ある時、南陽の人張奉が毛義の名を慕って尋ねに行きました。
張奉が坐ってから、ちょうど官府の檄(文書)が届き、毛義を安陽県令の代理に任命しました(守安陽令)。毛義は両手で檄をもって室内に入り、喜びが顔色を動かします。
張奉は心中で毛義を卑下し(心賎之)、別れを告げて去りました。
後に毛義の母が死ぬと、毛義は官府に招かれても全て拒否しました(徵辟皆不至)
張奉が嘆息して言いました「賢者とはもとから測れないものだ。往日の喜びは親のために屈したのだ(親のために官に就いたから喜んだのだ)。」
 
鄭均の兄は県吏になり、多くの礼遺(礼物。賄賂)を受け取りました。鄭均が諫めても聞かなかったため、鄭均は身を脱して(家を出て)傭人になりました。
一年余経ってから、鄭均は自分が得た銭帛を持って家に帰り、兄に贈ってこう言いました「物が尽きてもまた得られますが、吏となって臧(貪汚の罪)に坐したら生涯を棄てることになります(終身捐棄)。」
兄はこの言葉に感じ入って廉潔を為すようになりました。
鄭均は仕官して尚書になりましたが、後に免官して故郷に帰りました。
 
章帝は詔を下して毛義と鄭均を褒寵(表彰して厚くもてなすこと)し、それぞれに穀物千斛を下賜しました。
この後、毎年八月に長吏(県の官員)が起居を問い、加えて羊と酒を下賜するようになります。
 
後漢書劉趙淳于江劉周趙列伝(巻三十九)』を見ると、毛義への褒寵を「建初中(建初年間。76年から848月まで)」の事としていますが、『後漢書宣張二王杜郭呉承鄭趙列伝(巻二十七)』では鄭均と毛義への褒寵を「元和元年(本年)」と明記しています(『劉趙淳于江劉周趙列伝』は鄭均に触れていません。『宣張二王杜郭呉承鄭趙列伝』は二人について書いています)
資治通鑑』は後者に従って本年に書いています(胡三省注参照)
 
[十八] 『資治通鑑』からです。
武威太守孟雲が上書しました「北匈奴が再び吏民との合市(交易)を願っています。」
章帝は詔を発してこれを許可しました。
 
北匈奴の大且渠伊莫訾王等が牛馬一万余頭を駆って漢との交易に来ました。
しかし南単于が軽騎を派遣して上郡から出撃させ、これを略奪しました。
南匈奴は大量な物資を奪って兵を還しました(大獲而還)
 
[十九] 『後漢書班梁列伝(巻四十七)』と『資治通鑑』からです。
章帝が再び假司馬和恭(『資治通鑑』胡三省注によると和氏は羲和の後代です。または卞和の後代ともいいます)等を派遣し、兵八百人を率いて班超を訪ねさせました。
班超はこれを機に疏勒と于の兵を動員して莎車を撃ちました。
 
莎車は賄賂を使って疏勒王忠を誘いました。忠は東漢に反して莎車に従い、西の烏即城を守ります。
班超は改めて疏勒府丞成大を疏勒王に立てて、離反しなかった者を全て徴発して忠を攻めました。
 
半年が過ぎた頃、康居が精兵を送って忠を援けました。班超はなかなか烏即城を攻略できません。
当時、月氏が康居と婚姻を結んだばかりで親しい関係にありました。そこで班超は使者に多数の錦帛を持たせて派遣し、月氏王に贈りました。月氏から康居王に曉示(諭して戒めること。説得)させます。
その結果、康居王は兵を引き上げ、忠を捕えて自国に帰りました。
烏即城は班超に降りました。
 
 
 
次回に続きます。