東漢時代111 章帝(十七) 四分暦 85年(1)

今回は東漢章帝元和二年です。三回に分けます。
 
東漢章帝元和二年
乙酉 85
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月乙酉(初五日)、章帝が詔を発しました「令にはこうある『民で子を生んだ者がいたら、三年の算人頭税を免除する(『粛宗孝章帝紀』の原文は「人有産子者復勿筭三歳」、『資治通鑑』は「民有産子者復勿算三歳」です。『資治通鑑』胡三省注によると、妻が子を生んだら夫の人頭税が免除されました)。』今、全ての懐妊している者に対して、胎養の穀穀物を一人当たり三斛下賜し、夫の算人頭税を一年免除する(復其夫勿算一歳)。これを著して令とせよ(著以為令)。」
 
また、三公に詔を発しました「今は春の生養(生育)の時であり、万物が芽生えるので(方春生養万物莩甲)、萌陽(新生の陽気)を助けて時物(時節にあった物。ここでは生命がある物を指します)を育てるべきである。よって有司(官員)に命じる。罪が殊死(死刑)ではない者は暫く案験(調査審理)の必要がなく、吏人が條書(箇条書きにした書状)で訴えても聴受してはならない。こうして事を休めて人を安んじさせ(息事寧人)、恭しく天の気を受け入れること(敬奉天気)を期待する。立秋を過ぎたら今まで通りとする立秋如故)
俗吏とは外貌を矯飾(虚飾)しており、表面上は正しいようでも実際は間違っている(似是而非)。人事を推測したら聴く人の耳を楽しませ(人の事を推測して巧みに語り。原文「揆之人事則悦耳」)、陰陽について論じたら教化を損なわせるので(論之陰陽則傷化)、朕は甚だこれを嫌い、これを苦としている(甚饜之甚苦之)
安静(落ち着いていて慎重なこと。安定していること)の吏は悃愊(至誠。誠実)で華(虚美)がなく、日ごとに計ったら不足していても月ごとに計ったら余りある(原文「日計不足,月計有余」。『資治通鑑』胡三省注によると、一日単位で功績を計ったら不足しているようだが、長い期間で計ったら民が生活を安定させて自給自足できるようになり、功績に余りがあるという意味です)。たとえば襄城令劉方(『粛宗孝章帝紀』の注によると、字は伯況で平原の人です)は吏民が声をそろえて不煩(政務が煩雑ではないこと)と称しており、確かに他異(他の特殊な功績)はないが、これも(朕の要求に)ほぼ近付いている(斯亦殆近之矣)
近来、二千石に勅令してそれぞれ寬明を貴ばせているが、今も富姦が下で賄賂を行い(行賂於下)、貪吏が上で法を曲げ(枉法於上)、罪がある者を裁かず、過ちがない者に刑を被らせている(使有罪不論而無過被刑)。これは甚しい大逆である。苛酷を明察とみなし(以苛為察)、刻薄を英明とみなし(以刻為明)、刑が軽いことを徳とみなし(以軽為徳)、刑が重いことを威厳とみなす(以重為威)。もしこの四者が興ったら、下に怨心が生まれる。吾(私。朕)詔書をしばしば下し、冠蓋(冠や車の傘。ここでは皇帝の使者を指します)が道で接したが(皇帝の使者が道を行き来したが)、吏が理(『粛宗孝章帝紀』では「理」、『資治通鑑』では「治」です)を加えていないので(政治を改めないので)、民のある者は職を失っている(一部の者は民の本文を守っていない)。この咎はどこにあるのだ。旧令を勉めて思い(考え)、朕の意にそわせよ(称朕意焉)。」
 
[] 『資治通鑑』からです。
北匈奴の大人車利涿兵等が逃亡して塞に入りました。合わせて七十三輩(組)います。
当時の北虜北匈奴は衰耗していたため、党衆が次々に離反しました。
そこで南部南匈奴北匈奴の前(南部)を攻め、丁零が後ろ(北)を寇し(侵し)鮮卑が左(東)を撃ち、西域が右(西)を侵しました。
北匈奴は自立できなくなり、民を率いて遠くに去りました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
単于(湖邪尸逐侯鞮単于が死に、単于(伊伐於慮鞮単于の子宣が立ちました。これを伊屠於閭鞮単于といいます。
 
南匈奴では、呼韓邪単于単于比)の後、丘浮尤鞮単于(呼韓邪単于の弟莫)、伊伐於慮鞮単于(丘浮尤鞮単于の弟汗)僮尸逐侯鞮単于(呼韓邪単于の子適)、丘除車林鞮単于(丘浮尤鞮単于の子蘇)を経て湖邪尸逐侯鞮単于僮尸逐侯鞮単于の弟長)が立ち、今回、湖邪尸逐侯鞮単于を継いで伊屠於閭鞮単于が立ちました。
 
[] 『後漢書粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。
西漢武帝時代に『太初暦』を施行してから百余年が経過し、暦が実際の天の運行よりも遅れるようになりました(月の満ち欠けと暦が一致しなくなりました)
資治通鑑』胡三省注によると、王莽が既に『太初暦』を廃して『三統暦』を使いました。しかし東漢光武帝が中興してから、王莽の暦を廃して再び『太初暦』を使っていたようです。
 
章帝は治暦(暦を管理する官)編訢(人名)、李梵等に命じて暦を整理訂正させ、『四分暦』を作りました。
二月甲寅(初四日)、『四分暦』が施行されました(『粛宗孝章帝紀』は「四分歴」と書いていますが、『資治通鑑』に従って「四分暦」にしました)
 
[] 『後漢書粛宗孝章帝紀』からです。
章帝が詔を発しました「今、山川の鬼神で典礼(儀式。祭祀)に応じているものは、全てまだ秩(秩序)がない。よって群祭の増修(増加整理)を議して豊年(豊作)を祈ることにする。」
 
[] 『後漢書粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。
章帝は太子だった頃、東郡太守汝南の人張酺から『尚書』を学びました。
 
丙辰(初六日)、章帝が東巡して東郡を行幸しました。
章帝は張酺および門生を連れて郡掾史と共に庭中(郡府の庭)で会しました。
まず章帝が弟子の儀を備えて張酺に『尚書』一篇の講釈をさせ、その後、君臣の礼を修めます。
張酺に特別な賞賜を与えて行き届かないことがありませんでした(賞賜殊特,莫不沾洽)
 
また、章帝は任城を通って鄭均の舍を訪ねました。鄭均は終生、尚書の禄を下賜されることになります。
当時の人は鄭均を「白衣尚書」と号しました。「白衣」は平民の意味です
資治通鑑』胡三省注によると、鄭均は章帝に仕えて尚書になり、しばしば忠言を納めたため、章帝に敬重されました。しかし病のため職を辞して任城に帰っていました。
 
[] 『後漢書粛宗孝章帝紀』からです。
己未(初九日)、鳳皇鳳凰が肥城に止まりました(または「集まりました」。原文「集肥城」。『粛宗孝章帝紀』の注によると、肥城は県名で太山郡(泰山郡)に属しました)
 
 
 
次回に続きます。