東漢時代113 章帝(十九) 匈奴対応 85年(3)

今回で東漢章帝元和二年が終わります。
 
[十二] 『後漢書粛宗孝章帝紀』からです。
五月戊申、章帝が詔を発しました「最近、鳳皇、黄龍、鸞鳥が相次いで七郡に集まり(比集七郡)、あるいは一郡で再見している。白烏、神雀、甘露に及んではしばしば姿を現している(屢臻)。祖宗の旧事(前例)では、(瑞祥が現れたら)ある時は恩施を頒布した(『粛宗孝章帝紀』の注によると、西漢武帝の時代に芝草(霊芝)が甘泉宮に生え、宣帝の時代に嘉穀玄稷(黒粟)が郡国に降ったり神雀が頻繁に止まりました。その都度、天下に大赦しました)。よって天下の吏(恐らく「民」の誤りです)に一人当たり三級の爵を下賜し、高年(高齢者)鰥寡(配偶者を失った男女)孤独(孤児や身寄りのない老人)に一人当たり帛一匹を与える。『経(詳細はわかりません)』はこう言っている『鰥寡を虐げてはならない。煢独(身寄りがない者)に恵みを与える(無侮鰥寡,恵此煢独)。』河南の女子百戸ごとに牛酒を加えて下賜し、天下に五日間の大酺(大酒宴)を命じる(『粛宗孝章帝紀』の注は「男には爵位を与え、女子には牛酒を与えた」と解説しています。ここでいう「女子」は、爵位を与えられた者の妻という説と、「女戸(女が主人の家。男がいない家)の主」という説があります)。公卿以下にはそれぞれ差をつけて銭帛を下賜する。洛陽の人で酺に当たった者(恐らく大酺に参加した者)には一戸ごとに布一匹を、城外は三戸ごとに一匹を下賜する。博士員弟子(博士弟子員。太学の生徒)で現在太学にいる者には一人当たり布三匹を下賜する。郡国に命じて明経の者を報告させる。(報告する人数は)人口十万以上なら五人、十万に満たない場合は三人とする。」
 
[十三] 『後漢書粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。
廬江郡が六安国に改められ、江陵国が南郡に戻されました(章帝建初四年79年に劉恭が江陵王に封じられたため、江陵国が建てられました)
 
五月、江陵王劉恭(明帝の子、章帝の兄弟)を六安王に遷しました。
 
[十四] 『後漢書粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月庚子(二十三日)、章帝が詔を発しました「『春秋』が春の最初の月に必ず『王』と書いたのは(原文「『春秋』於春每月書『王』者」。孔子が編纂した『春秋』は「隠公元年春王正月」「隠公二年春王二月己巳,日有食之」というように、春の最初の記述に「月(正月・二月・三月)」がある場合は、必ず「王」をつけました(王正月・王二月・王三月)。但し、「隠公二年春、公会戎于潜」のように、春の記述でも「月」がない場合は「王」もありません」)、三正を重んじて三微に対して慎重だったからである(重三正慎三微)。『律』によるなら十二月立春は報囚(囚人の判決および処刑)をしないものである(律十二月立春不以報囚)。『月令』には冬至冬至は旧暦の十一月にあります)の後に順陽助生の文(陽に順じて生を助けるという記述)があり、鞠獄断刑(審理判決)の政はない。朕が博学な学者に教えを請い(咨訪儒雅)、典籍を考察したところ(稽之典籍)、王者の生殺は時気に順じるべきであるとのことだった。よって律を定めて十一月冬至がある月)、十二月立春がある月)は報囚をせず、冬初十月(冬の最初の月・十月)までで止めることにする。」
 
「三正」は夏、商(殷)、周三王朝の暦です。漢の暦は夏暦が元になっているので、漢も夏も正月は一月ですが、周王朝の正月は夏暦の十一月、商王朝の正月は夏暦の十二月に当たりました。
「三微」は「三正」における正月の特徴です。『資治通鑑』胡三省注によると、三正の始(正月)には万物にそれぞれ特徴があり、物色(事象の様子)が異なりました。
十一月は陽気が黄泉の下から施されます。色は赤に当たり、赤は陽気を表します。陽気は天に符合するので、周王朝は「天正」として十一月に正月を置き、色は赤を貴びました。
十二月は万物に芽が生まれます(万物始牙)。色は白に当たり、白は陰気を表します。陰気は地に符合するので、殷(商)王朝は「地正」として十二月に正月を置き、色は白を貴びました。
十三月(夏暦正月)は万物が莩甲(芽が地上に出ること)します。色は黒に当たり、人々は功を立てて業を拡げることができます(人得加功展業)。そのため夏王朝は「人正」として十三月に正月を置き、色は黒を貴びました。
また、夏王朝は十三月に正月を置いて平旦(日の出の時)を朔とし、商王朝は十二月に正月を置いて雞鳴(鶏が鳴く頃)を朔とし、周王朝は十一月に正月を置いて夜半を朔としました。
 
通常、漢代は秋と冬に死刑の判決と執行をしていました(章帝元和元年84年にも触れました)。これを「秋冬行刑」といいます。
しかし章帝は商周が正月を置いた十一月と十二月も死刑の判決と執行をせず、冬の最初の月である十月で終わらせることにしました。十一月と十二月は冬なので陰の時ですが、「三微」によると地中で陽が芽生えて成長している時なので、陰の事である死刑は相応しくないと考えられました。
 
[十五] 『後漢書粛宗孝章帝紀』からです。
九月壬辰、章帝が詔を発しました「鳳皇鳳凰黄龍が現れた亭部(亭の管轄地。『粛宗孝章帝紀』の注によると、鳳凰肥城句窳亭の槐樹の上に現れ、黄龍は洛陽元延亭部に現れました)は二年の租賦を免除し(無出二年租賦)、男子に一人当たり爵二級を加える。先に発見した者には帛二十匹を、付近の者には三匹を、太守には三十匹を、令・長には十五匹を、丞・尉にはその半数を下賜する。『詩(小雅・車舝)』はこう言っている『汝に与える徳はないが、歌い踊って楽しもう(雖無徳與汝,式歌且舞)。』その他は賜爵の故事(前例)の通りとする。」

[十六] 『後漢書粛宗孝章帝紀』からです。
丙申、済南王劉康、中山王劉焉を招いて烝祭(宗廟の祭祀)で会しました。
 
[十七] 『後漢書粛宗孝章帝紀』からです。
冬十一月壬辰、日南至冬至に初めて関梁を閉じました。
 
『粛宗孝章帝紀』の注によると、『易』に「先王は至日に関を閉じて商旅を通さなくした(先王以至日閉関,商旅不行)」とあります。この「至日」は「冬至」です。
冬至は陰の気が極まる日なので、門を閉じて養生することで陽の気を養いました。
 
[十八] 『資治通鑑』からです。
冬、南単于が兵を送って北虜北匈奴の温禺犢王と涿邪山で戦い、斬獲(敵を斬捕したり物資を奪うこと)して還りました。
 
武威太守孟雲が上書しました「北虜は以前既に和親しましたが、南部がまた抄掠(侵略、略奪)しているので(復往抄掠)、北単于は漢が欺いたと言っており、塞を侵すことを謀っています(謀欲犯塞)。南が掠めた(奪った)生口(捕虜)を還してその意を慰安するべきです。」
 
章帝が詔を発して朝堂で百官に議論させました。
太尉鄭弘と司空第五倫は許可するべきではないと主張し、司徒桓虞と太僕袁安は生口を北匈奴に与えるべきだと主張します。
鄭弘が大声で激しく桓虞に言いました「生口を還すべきだと言う者は皆、不忠である!」
これに対して桓虞が朝臣の前で鄭弘の無礼を叱責したため、第五倫や大鴻臚韋彪も皆、顔色を変えました(作色変容)
司隸校尉も鄭弘等を弾劾したため、鄭弘等は皆、印綬を返上して謝罪しました。
章帝が詔を発して謝罪に応じました「久しく議論が沈滞(停滞)し、それぞれが志(意見)を持っている。事は議をもって従い(大事は議論によって決まり。大事は多くの意見を聞く必要があり。原文「事以議従」)、策は衆によって定めるべきである(策由衆定)。誾誾衎衎(『資治通鑑』胡三省注によると、「誾誾」は忠正の姿、「衎衎」は親睦の姿です)は礼を得ている姿である(原文「得礼之容」。百官が忠心を抱いて和睦しているのが一番望ましい)。しかし寝嘿(沈黙)して心に抑えたら、ますます朝廷の福にならない。君は何の尤(過失)があって深く謝るのだ。それぞれ冠を被って履物を履け(其各冠履)。」
 
章帝が改めて詔を下しました「江海が百川の長になるのは、(江海が百川の)下になるからである(以其下之也)。わずかに屈下を加えたとしても(漢がわずかに屈したとしても。原文「少加屈下」)、何を憂いることがあるか(尚何足病)。しかも今は匈奴との間に君臣の分が定まっているので、北匈奴の)言葉は(漢)に従順で盟約も明らかであり(辞順約明)、貢献が重ねて至っている。どうして信に違えて自らその曲(批難)を受けるべきなのだ(漢が自ら信に違えて非難を受ける必要はない)。よって度遼及領中郎将(度遼将軍兼領中郎将。『資治通鑑』胡三省注によると、「領中郎将」は「領護匈奴中郎将匈奴中郎将兼任)」を意味します)龐奮に勅令する。南部が得た生口の倍を償いとして北虜に還せ(倍雇南部所得生口以還北虜)。但し、南部による斬首獲生(斬首や捕虜を得ること)は常科(通常の規定)通りに功を計って賞を授ける(計功受賞如常科)。」
東漢は一方では北匈奴に生口を返し、一方では南匈奴北匈奴を侵犯しても褒賞を与えることにしました。
 
 
 
次回に続きます。