東漢時代114 章帝(二十) 鄭弘 86年(1)

今回は東漢章帝元和三年です。二回に分けます。
 
東漢章帝元和三年
丙戌 86
 
[] 『後漢書粛宗孝章帝紀』からです。
春正月乙酉、章帝が詔を発しました「人の君となる者は、父母のように民を視て、(悲痛、憐憫)の憂を持ち、忠和の教え(『粛宗孝章帝紀』の注によると、忠と和は六徳の一つです。六徳は智和です)と匍匐の救い(全力で助けること)があるものだ。よって、嬰児で父母親属がない者および子がいるのに養食(養育)できない者に、律に基いて食糧を与える(稟給如律)。」
 
[] 『後漢書粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。
丙申(二十二日)、章帝が北巡しました。
済南王劉康、中山王劉焉、西平王劉羨、六安王劉恭、楽成王劉党、淮陽王劉昞、任城王劉尚、沛王劉定が従いました。
 
辛丑(二十七日)、懐で田地を耕しました。
 
壬寅(『粛宗孝章帝紀』は「二月壬寅」としていますが、「正月壬寅(二十八日)」のはずです)、章帝が常山、魏郡、清河、鉅鹿、平原、東平郡の太守と相に告げました「朕が巡狩の制を思うに、(巡狩とは)声望と教化を拡め(以宣声教)、遠近の違いを考察して同等にし(考同遐迩)、怨恨を解く(解釈怨結)ためにある。今は『四方の国に善政がないのは、良才を用いていなからだ(原文「四国無政,不用其良」。『詩経小雅十月之交』の一句です)』という状況である。
車に乗って出遊するのは(原文「駕言出游」。「言」は語助詞で意味はありません)、自ら劇易(難易。軽重)を知りたいと欲するからだ。以前、園陵を祀った際、華(西嶽華山と南嶽霍山)を望祀(山川の祭祀)し、東の岱宗(泰山)(柴祀)して人のために福を祈った。今回は常山を礼す(祭る)。そこで北土に向かい、魏郡を通って平原を経由し、隄防に登って(升践隄防)耆老(老人)を詢訪(訪問)したところ、皆が『以前、汴門(水門の名)が作られていない時は、深い場所は淵となり、浅い場所は泥塗(泥がたまった場所)になりました』と言った。先帝の勤人の徳(民に対して勤勉な徳。汴渠は明帝時代に完成しました)を追惟(追念)する。(先帝は)功績を残して遠慮を持ち(厎績遠図)、禹の弘業(大業)を恢復し、聖人の業績を広く流布して海表(海外)に至らせた(聖跡滂流至于海表)。しかし朕は大業を継承できず(原文「不克堂構」。「堂構」は家の基礎、構えの意味ですが、父が家の基礎を造り、子が受け継いで家を建てるという故事があり、そこから「堂構」は父の大業という意味にもなりました。「不克堂構」は「父の大業に克てない」「大業を継承できない」という意味です)、甚だ慚愧している。
『月令』によるなら、孟春(正月)は丘陵の土地に相応しい物穀物を善く(注意深く)視るものだ(孟春善相丘陵土地所宜)。今は肥田が多いのにまだ墾闢(開墾)されていない場所がある。よって(開墾していない土地を)ことごとく貧民に賦し(与え)、糧種(食糧と穀物の種)を支給する。務めて地力を尽くさせ、游手(やる事がないこと。または正業に就かないこと)させてはならない。通過する県邑では、今年は田租の半分だけを入れさせ(聴半入今年田租)、こうすることで農夫の労を勧めよ(奨励せよ)。」
 
二月乙丑(二十一日)、章帝が侍御史と司空に命じました「ちょうど季節は春なので、通過する場所で伐殺することがあってはならない(生き物を殺してはならない)。車が遠回りできる場所は遠回りし(車可以引避引避之)、騑馬(馬車を牽く四頭の馬のうち左右の二頭)を外せるようならそれを外せ(騑馬可輟解輟解之)。『詩(大雅行葦)』はこう言っている『道端に繁茂する葦を牛羊に踏ませてはならない(敦彼行葦,牛羊勿践履)。』礼においては、人君が草木を伐るのが時に合わなかったら、それを不孝という(原文「伐一草木不時謂之不孝」。『粛宗孝章帝紀』の注によると、『礼記』に「一樹を伐り、一獣を殺すのが時に合わなかったら孝ではない(伐一樹殺一獣不以其時非孝也)」とあります)。俗人は人に順じることを知っているが、天に順じることは知らない(俗知順人,莫知順天)。朕の意を明らかにしてそれをかなえよ(其明称朕意)。」
資治通鑑』胡三省注によると、侍御史は道中で法を犯す者を検挙し、司空は工徒を率いて道路や橋梁を修理しました。章帝が侍御史と司空に命じたのはそのためです。
 
戊辰(二十四日)、章帝が中山に進み、使者を送って北嶽(恒山。常山)を祀ってから長城を出ました。
資治通鑑』胡三省注によると、秦の蒙恬が長城を築いて西は臨洮から東は海に至りました。但し章帝が訪れた長城は秦のものではなく、趙が築いた長城のようです。
 
癸酉(二十九日)、帰還して元氏(地名)行幸し、光武帝と顕宗(明帝)を県舍の正堂で祀りました。
翌日、また顕宗を始生堂で祀りました。
『粛宗孝章帝紀』の注によると、明帝は常山元氏の伝舍で生まれました。「始生堂」は明帝が生まれた場所です。
どちらの祭祀でも音楽を奏でました(皆奏楽)
 
三月丙子(初三日)、章帝が高邑令に詔を発し、光武帝を即位壇で祀らせました。
光武帝は鄗南で即位し、鄗県を高邑県に改名しました。
元氏の七年の徭役を免除しました(復元氏七年傜役)
 
三月己卯(初六日)、趙に進みました。
庚辰(初七日)、霊寿で房山を祀りました。
『粛宗孝章帝紀』の注によると、霊寿は県名で常山郡に属します。房山は俗名を王母山といい、山上に王母祠がありました。
 
辛卯(十八日)、皇宮に還りました。
随行した者にそれぞれ差をつけて賞賜を与えました。
 
[] 『後漢書粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。
侍中竇憲の権勢が旺盛だったため、太尉鄭弘がしばしばそれを指摘しました。鄭弘の言が甚だ切迫していたため、竇憲は鄭弘を嫌うようになります。
この頃、鄭弘が竇憲の党に属す尚書張林と雒陽令楊光について上奏しました。二人が官位にいながら貪残(貪婪暴虐)であると訴えます。
上奏文が提出されましたが、受け取った官吏が楊光と旧交があったため、楊光に上奏の内容を伝えてしまいました。
楊光は竇憲に報告します。
そこで竇憲が逆に楊弘を訴える上奏をしました。鄭弘が大臣でありながら密事を漏洩したという内容です(原文「漏泄密事」。「密事」の内容は不明です。上奏文の内容が楊光に漏れた事を指すのかもしれません)
章帝は鄭弘を詰問譴責しました。
 
夏四月丙寅(二十三日)、章帝が鄭弘の印綬を回収しました。
鄭弘は自ら廷尉を尋ねましたが(廷尉の裁きを受けに行きましたが)、章帝が詔敕を発して釈放させます。
鄭弘が引退して故郷に帰ることを願いましたが(乞骸骨帰)、章帝は許しませんでした。
 
しかし鄭弘が病を患って重くなったため、陳謝の上書をしてこう言いました「竇憲の姦悪は、上は天を貫き下は地に達しており(貫天達地)、海内が疑惑し、賢者も愚者も疾悪(憎悪)してこう言っています『竇憲はどのような術で主上(陛下)を迷わせているのだ。近日の王氏(王莽。外戚の禍が明らかに見える(昞然可見)。』陛下は天子の尊に位置し、万世の祚(帝位)を保っているのに、讒佞の臣を信じて存亡の機(要)を計っていません。臣は命が晷刻(古代の時計。ここでは短い時間を意味します)にありますが(臣の命は長くありませんが)、死んでも忠を忘れません。陛下が四凶(舜が放逐した四人の凶悪な臣)の罪を誅して人鬼憤結の望を厭すること(人や鬼神が憤懣して抱いた思いを抑えること)を願います。」
(上書)を読んだ章帝は医者を派遣して鄭弘の病を看させましたが、医者が到着した時には既に死んでいました。
 
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、袁宏の『後漢紀』にこのような記述があります。
鄭弘が尚書僕射になってから、烏孫王が子を送って入侍させました。
章帝が鄭弘に問いました「その使者烏孫の使者)に答えるべきか?」
鄭弘が言いました「烏孫が以前、大単于に攻められた時、陛下は小単于に援けに行かせました。まだそれを賞していないのに、今、これ烏孫に答えたら、小単于が怨むのではありませんか(大単于と小単于が誰を指すのかはわかりません)。」
章帝は鄭弘の意見について侍中竇憲に問いました。
竇憲が答えました「礼には往来があります(礼存往来)。鄭弘は章句の諸生(文書にこだわるだけの学者、儒者なので、国体に達していません。」
章帝は竇憲の意見を採用して烏孫に答礼しました。
その結果、小単于が忿恚(憤怒)して金城郡を攻め、太守任昌を殺しました。
章帝が鄭弘に言いました「朕が以前、君の議(意見)に従わなかったので、果たしてこのような事になってしまった。」
鄭弘が答えました「竇憲は姦臣です。少正卯の行いがあるのに、まだ両観の誅を被っていません(少正卯は春秋時代の魯国に仕えました。孔子が少正卯を国を惑わす小人とみなして宮闕で殺しました)。陛下は以前、どうして彼の議を用いたのですか。」
胡三省注は「粛宗(章帝)時代に小単于が金城を侵したという事件はないので、『資治通鑑』はこの記述を採用しなかった」と解説しています。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀と『資治通鑑』からです。
大司農宋由を太尉に任命しました。
粛宗孝章帝紀』の注によると、宋由の字は叔路といい、長安の人です。
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代115 章帝(二十一) 第五倫 86年(2)