東漢時代115 章帝(二十一) 第五倫 86年(2)
今回は東漢章帝元和三年の続きです。
司空・第五倫が老病のため引退を乞いました。
原文は「以老病乞身(老病のため身を乞う)」です。『資治通鑑』胡三省注によると、君主に身を委ねて仕えたら、その身は自分のものではなくなります。そのため、引退を乞うことを「乞身(身を乞う。身を求める)」と言いました。
五月丙子(初三日)、章帝が策書を下賜して第五倫の職を免じました。但し、終生二千石の俸禄を与えることにしました(以二千石俸終其身)。
第五倫は公を奉じて節を尽くし、曖昧な言事(意見)がありませんでした(言事無所依違)。
性格は慤質(誠実質朴)で、文采(華美な文辞)が少なく、官位にいる時は貞白で名を知られました(以貞白称)。
ある人が第五倫に「公(あなた)には私(私心。私情)がありますか」と問うと、第五倫はこう答えました「昔、ある人が私に千里の馬を贈った。私はそれを受け取らなかったが、いつも三公を選挙する度に心中で(馬を贈った人を)忘れることができず、しかしやはり最後まで用いなかった。このようであるのに、どうして私がないと言えるのか。」
第五倫に代わって太僕・袁安が司空になりました。
九月、皇宮に安邑から還りました。
焼当羌の迷吾がまた弟の号吾および諸種(諸族)と共に反しました。
号吾がまず軽装で進入して隴西辺界を侵します。
号吾が隴西太守・張紆に言いました「私だけを殺しても、羌にとって損失はない。しかしもしも生きて帰ることができたら、必ず全て撤兵して再び塞を侵すことはない(必悉罷兵不復犯塞)。」
張紆は号吾を釈放して羌に送りました。
羌はすぐに兵を解散させてそれぞれの故地(故郷)に帰ります。
迷吾も退いて河北の帰義城に住みました。
疏勒王・忠(二年前に漢に背いて康居国に連れていかれました)が康居王から兵を借りて戻りました。
忠は損中を占拠します。
『資治通鑑』胡三省注によると、「損中」は「頓中」、「楨中」とも書きます。胡三省は『後漢書・西域伝(巻七十八)』に「(霊帝時代、東漢が)疏勒を討って楨中城を攻めた」という記述があることから、「楨中」が正しいとしています。
疏勒王・忠は使者を派遣して西域長史・班超に偽りの投降をしました。
姦計を知った班超も偽って同意します。
忠は軽騎を率いて班超を訪ねましたが、班超に斬られました。
班超が機に乗じて疏勒王・忠の衆を撃破し、南道が開通されました。
楚許太后が死にました。
許太后の死後、章帝は詔を発して劉英を改葬し、遡って爵諡を送って楚厲侯にしました。
『後漢書・光武十王列伝(巻四十二)』によると、これ以前の章帝建初二年(77年)に章帝が劉英の子・劉种を楚侯に封じました。この年、許太后が死んでから、劉英を彭城に改葬し、侯の爵位を贈って諡号を厲侯にしました(劉英は自殺後、諸侯の礼で涇に埋葬されていましたが、爵位は剥奪されていました。彭城は楚国の都です)。
章帝が潁川の人・郭躬を廷尉に任命しました。
郭躬は決獄断刑(判決)の多くを矜恕(憐憫寛恕)に則りました。
また、重刑の律文の中から軽刑に改められる内容を探して四十一項目を上奏しました。全ての内容が採用されます(條諸重文可従軽者四十一奏之事皆施行)。
次回に続きます。