東漢時代116 章帝(二十二) 焼当羌 87年(1)
今回は東漢章帝章和元年です。二回に分けます。
東漢章帝章和元年
丁亥 87年
七月に元和から章和に改元します。
博士で魯国の人・曹褒が上書して「文制を定めて漢礼を著成するべきです(漢の礼制を編成させるべきです)」と進言しました。
章帝は諸儒が古い考えに拘攣(拘泥)しており、新しいことを共に始めるのは困難だと知っていました。しかし朝廷の礼憲(礼制)は早急に立てなければなりません。
そこで曹褒を侍中に任命しました。
しかし章帝はこう言いました「こういう諺がある『道の傍に家を建てたら三年経っても完成しない(意見が多くてまとまらないからです。原文「作舍道辺,三年不成」)。』会礼の家(礼を議すために集まった各学派の儒者)は、聚訟(集まって互いに言い争うこと)を名義とし(会礼之家,名為聚訟)、互いに疑異を生んで筆を下すことができないものだ。昔、堯が『大章』を作った時は夔一人で足りた(『資治通鑑』胡三省注によると、『大章』は堯が作った音楽で、夔は堯時代の楽官です)。」
春正月、章帝が曹褒を招いて叔孫通の『漢儀』十二篇を授け、「この制(制度)は散略(粗略、不完全なこと)としており多くが経に合わない。今、礼に従って一條ずつ訂正し、施行できるようにするべきだ」と言いました。
しかし羌人も胡人も傅育に従うことなく、逆に諸羌がまた漢に叛して塞外に出て、改めて迷吾を頼りました。
そこで傅育が諸郡の兵数万人を動員して共に羌を撃つことを朝廷に請いました。
三月、兵が集結する前に傅育が単独で進軍しました。
それを聞いた迷吾は廬落(穹廬。移動式の部屋)を遷して去りました。
傅育は精騎三千を派遣して迷吾を窮追させ、夜の間に三兜谷に至りました。しかし備えを設けなかったため、迷吾の襲撃に遭って大敗します。傅育と吏士八百八十人が殺されました。
この時、諸郡の兵が到着したため、羌軍は引き上げました。
章帝は詔を発して隴西太守・張紆を護羌校尉に任命し、一万人を率いて臨羌に駐屯させました。
夏四月丙子、郡国と中都官(京師の官府)に命じて繫囚(囚人)から死一等を減らし、金城の戍(守備)に送らせました。
夏六月戊辰(初二日)、司徒・桓虞を罷免しました。
任隗は任光(「雲台二十八将」の一人。明帝永平三年・60年参照)の子です。
斉王・劉晃および弟の利侯・劉剛と母の太姫が互いに誣告しあいました(原文「斉王晃及弟利侯剛與母太姫更相誣告」。恐らく、劉晃と弟の劉剛が対立し、母が劉剛を助けたのだと思います)。
壬子(十七日)、淮陽王・劉昞(頃王)が死にました。
劉昞は明帝の子で、章帝の兄弟です。実母が誰かは分かりません。
南匈奴は東漢と交流が深く、『後漢書』にも『南匈奴列伝』があるので、詳細が伝わっていますが、北匈奴の状況ははっきりしません。そのため、蒲奴単于の跡を継いだのが優留単于なのか、蒲奴単于と優留単于がどのような血縁関係にあるのか、優留単于の跡は誰が継いだのか等々、不明な点が多数あります。
焼当羌の豪・迷吾が再び諸種(諸族)と共に金城塞を侵しました。
護羌校尉・張紆は従事で河内の人・司馬防を派遣しました。
司馬防と羌軍は木乗谷で戦い、迷吾の兵が敗れて逃走しました。迷吾が訳使(通訳の使者)を通して投降を欲したため、張紆はこれを受け入れます。
張紆は渠帥・迷吾の頭を斬って傅育の冢(墓)を祀りました。
また、兵を放って羌の余衆を撃ち、数千人を斬ったり捕虜にしました。
羌の種衆(族衆)が熾盛(旺盛。強盛)だったため、張紆は迷唐等を制御できませんでした。
次回に続きます。