東漢時代117 章帝(二十三) 莎車降伏 87年(2)

今回は東漢章帝章和元年の続きです。
 
[] 『後漢書粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。
七月壬戌(二十七日)、瑞物が頻繁に集まったため、章帝が詔を発して章和に改元しました。
資治通鑑』胡三省注によると、「章」は「明」と同義で、「章和」は「和気が瑞祥をもたらしたことを明らかにする(明和気之致祥)」という意味です。
以下、『粛宗孝章帝紀』から詔の内容です「朕が聴くに、明君の徳とは鴻化(広大な教化)を啓迪(啓発)して光明安定をもたらし(緝熙康乂)、光が六幽(天地四方)を照らし、全ての人に及んで服従しない者がなく(訖惟人面靡不率俾)、仁風が海表に飛翔し、威霆(威信による震動)が鬼区(『粛宗孝章帝紀』によると「鬼方」を指します。遠方の異民族の地です)に行われる。その後、敬虔な態度で大祭を行い(敬恭明祀)、五福の慶を受けて来儀の貺を獲るものである(『粛宗孝章帝紀』によると「五福」は「寿康寧攸好徳(好徳を守ること)考終命(天寿を全うすること)」です。「来儀」は「鳳凰」です。「貺」は「賞賜」です)。朕は不徳をもって祖宗の弘烈(巨大な功業)を受けたが、最近、鳳皇(鳳凰)がしばしば集まり(または「しばしば止まり」。原文「鳳皇仍集」)麒麟が並んで至り麒麟並臻)、甘露が宵に降り(甘露宵降)、嘉穀が生い茂り(嘉穀滋生)、芝草(霊芝)の類が歳月に絶えない。朕は朝から夜まで(夙夜)上天を祗畏(敬畏)しているが、先功を明らかにすることがない(無以彰于先功)(しかし瑞祥が頻繁に訪れたので)今、元和四年を改めて章和元年にする。」
 
当時、京師の四方で次々に嘉瑞が現れ、前後して数百千にもなりました。
これについて語る者は皆、美事とみなしましたが、太尉掾平陵の人何敞だけはこの現象を嫌って太尉宋由と司徒袁安にこう言いました「瑞応とは徳によって至り、災異とは政が原因で生まれるものです(夫瑞応依徳而至,災異縁政而生)。今、異鳥が殿屋で飛翔し、怪草が庭際(宮庭の隅)に生えました。察しなければなりません(警戒しなければなりません。原文「不可不察」)。」
宋由と袁安は懼れて何も言えませんでした。
 
[] 『後漢書粛宗孝章帝紀』からです。
秋、章帝がこの月(七月)に衰老(老齢者)を養うように命じ、几杖(肘置きと杖)を授け、粥や飲食物をふるまいました(行糜粥飲食)
高年(老齢者)二人ごとに帛一匹を与え、醴酪にしました(原文「其賜高年二人共布帛各一匹以為醴酪」。「醴酪」は甘酒や乳製品、または麦粥のようなものです。恐らく「醴酪」の代わりに「二人ごとに帛一匹」を与えたのだと思います)
 
また、四月丙子の赦前に法を犯した死罪囚(死刑囚)で、捕まって繋がれている者は全て死罪から刑を減らし、笞打ちをせず、金城の戍(守備)に送りました。
 
[十一] 『後漢書粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。
八月癸酉(初八日)、章帝が南巡しました。
壬午(十七日)、章帝が使者を送り、小黄園で昭霊后を祀りました。
『粛宗孝章帝紀』の注によると、小黄は県名で陳留郡に属します。昭霊后は西漢高帝の母です。
 
甲申(十九日)、任城王(東平王蒼の子を招いて睢陽で会見しました。
 
戊子(二十三日)、梁を行幸しました。
己丑(二十四日)、章帝が使者を派遣し、沛の高原廟と豊の枌楡社(高帝の故郷にある土地神の社)を祀りました。
 
乙未晦、沛を行幸して献王陵(または「憲王陵」。劉蒼の陵)を祀り、東海王劉政を招いて会見しました。
 
[十二] 『後漢書粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。
乙未晦(章帝が沛を行幸した日)、日食がありました。
 
[十三] 『後漢書粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。
九月庚子(初五日)、章帝が彭城を行幸しました。
東海王劉政、沛王劉定、任城王劉尚が皆従いました。
 
辛亥(十六日)、章帝が寿春を行幸し、阜陵侯劉延光武帝の子。章帝建初元年76年参照)を再び阜陵王に封じました。

壬子(十七日)、章帝が郡国と中都官(京師の諸官府)に詔を発しました。繫囚(囚人)から死罪一等を減らして金城の戍(守備)に送らせます。
また、殊死(死罪)を犯した者(上述で既に死罪から一等を減らしています。この「殊死を犯した者」がどのような囚人を指すのかは分かりません。あるいは、和帝永元八年・96年の詔で囚人から死一等を減らした時、大逆の者は宮刑になっているので、この「殊死を犯した者」も大逆の罪を犯した者かもしれませんを全て集めて蚕室に下し宮刑に処されます)、女子も宮刑にしました。
鬼薪、白粲以上の刑で繋がれている囚人は、罪一等を減らして司寇作に移されました(輸司寇作)
亡命(逃亡)している者に贖罪させ、死罪に当たる者は縑(絹の一種)を二十匹、右趾から髠鉗城旦舂に当たる者は七匹、完城旦から司寇に当たる者は三匹を納めさせました(それぞれの刑については光武帝中元二年57年に書きました)
罪を犯した吏民で、事件がまだ発覚しておらず、詔書が到ってから自告(自首)した者は半数の縑を納めさせました(半入贖)
 
己未(二十四日)、章帝が汝陰を行幸しました。
冬十月丙子(十二日)、皇宮に還りました。

[十四] 『後漢書粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。
北匈奴が大乱し、屈蘭儲等の五十八部、人口二十八万が東漢の雲中、五原、朔方、北地を訪ねて降りました。
 
「屈蘭儲」というのは『資治通鑑』の記述で、『後漢書・粛宗孝章帝紀』では「屋蘭儲」、『後漢書南匈奴列伝(巻八十九)』では「屈蘭、儲卑、胡都須等の五十八部」と書かれています
 
[十五] 『資治通鑑』からです。
曹褒が旧典を基礎にして、『五経』『讖記』の文を加え、天子から庶人にいたる冠凶、終始の制度合計百五十篇を編纂しました。
これが上奏されると、章帝は衆論を一つにするのは困難だ(衆論難一)と考えたため、上奏を直接受け入れて有司(官員)には平奏(評議してからその結果を上奏すること)を命じませんでした。
 
[十六] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。
この年、西域長史・班超が于諸国の兵合計二万五千人を動員して莎車を撃ちました(班超は章帝元和元年・84年に莎車を攻めましたが、まだ攻略していませんでした)
 
班超の出兵に対抗して、亀茲王が温宿、姑墨、尉頭の兵合計五万人を率いて莎車を援けました。
 
班超は将校や于王を集めて会議を開き、こう言いました「今は兵が少ないので敵わない(兵少不敵)。よって、それぞれ解散して去ったほうがいい(其計莫若各散去)。于はここから東に向かえ。長史将兵長史班超)もここから西に帰ろう(『資治通鑑』胡三省注によると、西の疏勒に帰るという意味です)。夜の鼓声を待って出発する。」
資治通鑑』胡三省注によると、夜の鼓声というのは夜間、警戒のために敲く鼓の音です。
 
班超はわざと秘かに生口(捕虜)の警備を緩めました。生口が逃走して班超等が撤兵することを報告します。
それを聞いた亀茲王は大いに喜び、自ら万騎を率いて西界で班超を遮りました。温宿王も八千騎を率いて東で于を迎え撃ちます。
 
班超は二虜(亀茲と温宿)が既に兵を出したと知り、秘かに諸部を集めて兵を整え、莎車の営に向かって駆けました。
(莎車)は大驚乱に陥って奔走を始めます。
班超がそれを追撃して大破し、五千余級を斬りました。
莎車は東漢に投降し、亀茲等はそのまま退散しました。
 
この戦によって班超の威名が西域を震わせました。
 
[十七] 『後漢書・粛宗孝章帝紀からです。
月氏国が東漢に使者を送って扶抜と師子(獅子)を献上しました。
『粛宗孝章帝紀』の注によると、「扶抜」は麟(麒麟)に似ていて角がない動物です。
 
 
 
次回に続きます。