東漢時代118 章帝(二十四) 章帝の死 88年(1)

今回は東漢章帝章和二年です。四回に分けます。
 
東漢章帝章和二年
戊子 88
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、済南王劉康、阜陵王劉延、中山王劉焉が来朝しました。
三王とも光武帝の子で、章帝の叔父に当たります。
 
章帝は性格が寛仁で、親親の情を篤くしました(骨肉の情を重視しました。原文「篤於親親」)。そのため、叔父に当たる済南王と中山王が何回も入朝する度に、特別に恩寵を加えました。
また、諸兄弟も全て京師に留めて封国に派遣しませんでした。
資治通鑑』胡三省注によると、漢制においては、諸藩王は朝会の礼を終えたらそれぞれの国に帰り、京師に留まってはなりませんでした。
 
章帝が群臣に与える賞賜も制度を越えていたため、倉帑(国庫)が空虚になりました。
そこで何敞が宋由に意見書を提出しました(奏記)「連年水旱があり、民は收穫がなく、涼州縁辺では家(民家)が凶害を被り(『資治通鑑』胡三省注によると、西羌の侵犯を指します)、中州内郡では公私が枯渇しています(国も民も財が尽きています。原文「公私屈竭」)。これは実に損膳節用(「損膳」は皇帝の食事を減らすことですが、ここでは節約を意味します)の時です。今は国恩が覆載していますが(国恩が天下を包んでいますが)、賞賚(賞賜)が度を越えており、聞くところによると、郎官以上、公卿王侯以下の臘賜(十二月臘祭の賞賜)だけで、帑藏(国庫)を空竭(空尽。空虚)に至らせ、国資を損耗したとのことです。公家の用(費用)を尋ねたら(追究したら)、全て百姓の力によるものです。明君の賜賚(賞賜)には品制(等級制度)があるべきであり、忠臣の受賞にも度があるべきです(『資治通鑑』胡三省注によると、臘賜には決まりがあり、大将軍と三公にはそれぞれ銭二十万・牛肉二百斤・粳米二百斛を、特進侯には銭十五万、卿には銭十万、校尉には銭五万、尚書には銭三万、侍中大夫にはそれぞれ銭二万、千石六百石にはそれぞれ銭七千、虎賁羽林郎には二人で合わせて銭三千を下賜しました。虎賁羽林郎の部分は理解困難です。原文は「虎賁羽林郎二人共三千以為祀門戸直」です)。だから夏禹は玄圭(玉器)、周公は束帛だったのです(『資治通鑑』胡三省注によると、夏王朝の祖禹は治水の功績によって玄圭を下賜され、周公は召公から幣(帛。絹織物)を与えられました)。今、明公は位が尊く任が重いうえ、責が深く負(負っているもの。責任)も大きいので(位尊任重責深負大)、上は綱紀を匡正(矯正)し、下は元元(民衆)を済安(助けて安定させること)するべきです。ただ空空(質朴)として逆らわないだけでいいのでしょうか(豈但空空無違而已哉)。まずは自身を正して群下に率先し、下賜されたものを返上して、それを機に得失を述べ、王侯の就国を上奏するべきです。苑囿の禁(皇室の園林の禁制)を除き、浮費(必要ない経費)を節省し、窮孤(困窮して身寄りがない者)を賑卹(救済)すれば、恩沢が下に拡がり(恩沢下暢)、黎庶(庶民)が悦豫(喜悦歓喜するでしょう。」
宋由はこの進言を用いることができませんでした。
 
尚書南陽の人宋意が上書しました「陛下は至孝が烝烝(盛んな様子)としており、恩愛が隆深(深くて厚いこと)なので、諸王を礼寵(礼遇)して家人と同等にしています。(諸王は)車で殿門に入り(『資治通鑑』胡三省注によると、漢制では、太子と諸王は司馬門で車を下りなければなりませんでした。そのため、司馬門を止車門ともいいます)、席に就いて拝さず(『資治通鑑』胡三省注によると、臣下は君前で拝礼してから席に座るのが礼です)(陛下は)御膳を減らして美食を分け与え(分甘損膳)、賞賜が優渥(充足)しています。劉康、劉焉は幸いにも支庶(傍系)の身で大国を享食(享受)しており、陛下の恩寵も制を越えて礼敬が度を過ぎています。『春秋』の義によるなら、(皇帝の)諸父(伯叔父)、昆弟(兄弟)でも臣とならない者はいません。これは貴尊の者を尊び、卑賎の者を下に置き、幹を強くして枝を弱くする(尊尊卑卑,強幹弱枝)ためです。陛下は徳業が隆盛なので、万世の典法となるべきです。私恩によって上下の序(秩序)を損ない、君臣の正(正しい姿)を失ってはなりません。また、西平王(明帝の子。章帝の兄弟)等の六王は、皆、妻子がいて家を成しており、(王国の)官属も全て備わっているので、早く蕃国に就いて子孫のために基阯(基礎。基盤)を作るべきです。それなのに(彼等の)室第(邸宅)が互いに望みあい、久しく京邑に逗留して(久磐京邑)、驕奢が分を越えており(原文「驕奢僭擬」。「僭擬」は自分より上の者に並ぼうとすることです)、寵禄(恩寵と俸禄)が過度になっています(恩禄隆過)。忍びない情を割き(私情を棄て。原文「割情不忍」)、義によって恩を断ち、劉康、劉焉を発してそれぞれ蕃国に還らせ、劉羨等に命じて便時(吉日)に速く(封国に)就かせ、そうすることで衆望を塞ぐべきです(民衆を満足させるべきです)。」
しかし章帝は諸王を送り出す前に死んでしまいます。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。
壬辰(中華書局『白話資治通鑑』は「壬辰」を恐らく誤りとしています)、章帝が章徳前殿で死にました。
遺詔で「寝廟を起こしてはならない。一切を先帝の法制と同等にせよ(一如先帝法制)」と命じました。
 
章帝の享年を『粛宗孝章帝紀』は三十三歳、『資治通鑑』は三十一歳としています。『後漢書皇后紀上』によると、章帝は光武帝中元二年57年)に生まれました。本年は章帝章和二年88年)なので、享年は三十二歳が正しいはずです。
 
資治通鑑』が『後漢書・粛宗孝章帝紀』から抜粋してこう書いています。
「魏文帝は『明帝は察察(明察)であり、章帝は長者(忠厚の人)だった』と称した。章帝は元から人を知っており(人情に通じており)、明帝の苛切(苛酷)を嫌ったので、事は寬厚に従った。明徳太后(馬太后に奉承(侍奉。仕えること)して孝道に心を尽くした。徭役を抑えて賦税を軽くしたので(平傜簡賦)、民がその慶(福。恩恵)に頼った。また、忠恕を体(本体)とし、礼楽を文(表面を覆う模様)とした。これを長者というのは、適切な評価ではないか。」
 
明帝と章帝の時代は「明章の治」と呼ばれる比較的安定した時代でした。
しかし厳格だった明帝が外戚の権勢を制限したのとは逆に、寛容な章帝は外戚の専横に対して手を打ちませんでした。また、章帝自身が三十二歳という若さで死んだことも、後の外戚専権を招く原因になりました。
 
[] 『後漢書・孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
壬辰(章帝が死んだ日です)、太子劉肇が十歳で即位しました。これを和帝といいます。
竇皇后を尊んで皇太后にしました。
 
[] 『後漢書・孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月丁酉(初五日)淮陽国を陳国に改め、楚郡を彭城国に改めました。以前の淮陽王は劉昞(明帝の子)で、前年死んでから後嗣が立てられていませんでした。
 
章帝の遺詔によって西平王劉羨を陳王に、六安王劉恭を彭城王に遷しました。
二人とも明帝の子で、章帝の兄弟です。
 
西平国は汝南郡に合併され、六安国は再び廬江郡に戻されました(章帝元和二年85年参照)
 
[] 『後漢書・孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
癸卯(十一日)、孝章皇帝を敬陵に埋葬しました。
資治通鑑』胡三省注によると、敬陵は雒陽城の東南三十九里の場所にありました。
 
 
 
次回に続きます。