東漢時代119 章帝(二十五) 竇憲 88年(2)

今回は東漢章帝章和二年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
単于(伊屠於閭鞮単于が死に、単于(湖邪尸逐侯鞮単于の弟屯屠何が立ちました。これを休蘭尸逐侯鞮単于といいます(章帝元和二年85年参照)
 
[] 『後漢書・孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
和帝がまだ幼いため、竇太后が朝廷に臨みました太后臨朝)
資治通鑑』胡三省注によると、少帝(幼い皇帝)が即位したら太后が代わりに摂政しました。前殿に臨んで群臣に向かい、太后が東に、少帝が西に座ります太后東面,少帝西面)。群臣が上書・奏事する時は二通を準備しました。一通は太后に、一通は少帝に提出されます。
 
竇憲が侍中として宮内で機密に関わり、皇宮から出たら誥命(本来は皇帝の命令ですが、ここでは太后の命令です)を宣布しました。
弟の竇篤は虎賁中郎将になり、竇篤の弟竇景と竇瓌はどちらも中常侍になりました。兄弟が全て親要の地(近親かつ重要な地位)を占めます。
 
竇憲の客崔駰が書を送って竇憲を戒めました「『伝(詳細は不明です)』はこう言っています『生まれながらに富んでいる者は驕奢になり、生まれながらに尊貴な者は傲慢になる(生而富者驕,生而貴者慠)。』富貴な身に生まれながら、驕慠にならずにすんだ者は未だにいません。今、寵禄が盛んになったばかりで(寵禄初隆)、百僚(百官)(あなたの)行動を観察しています。どうして『朝から夜まで怠ることなく、こうして終生の栄誉を希む(原文「庶幾夙夜,以永終誉」詩経周頌振鷺』の句です)』という態度をとらないのでしょうか。昔、馮野王は外戚として官位におり、賢臣と称されました(馮野王の妹は西漢元帝の昭儀になりました。馮野王は九卿の中で素行も能力も第一とされました。西漢元帝竟寧元年33年参照)。最近では陰衛尉(陰興)が克己復礼し(「復礼」は礼を守るという意味です。『資治通鑑』胡三省注によると、陰興が侯爵と大司馬の地位を譲ったことが「克己復礼」に当たります)、最後は多くの福を受けました。外戚が時の人から非難を受けて(獲譏於時)、後世に罪を残すのは(垂愆於後者)、満たされても謙譲せず(満而不挹)、位に余りがあっても仁が足りないからです。漢興以後、哀平に至るまで(漢が興隆してから哀帝、平帝に至るまで)、外家外戚は二十いましたが、族を保って身を全うしたのは四人だけです(『資治通鑑』胡三省注によると、外家二十は呂氏、張氏、薄氏、竇氏、王氏、陳氏、衛氏、李氏、趙氏、上官氏、史氏、許氏、霍氏、卬成邛成)王氏、元后王氏、趙氏、傅氏、丁氏、馮氏、衛氏です。このうち、文帝の薄太后と竇后、景帝の王后、宣帝の卬成王后の四人だけは家族を保全できました。武帝の夫人李氏は死んでから武帝に配されて祀られましたが、昌邑王劉賀武帝と李夫人の孫)が即位してすぐに廃されたため、外家とはみなされません)。『書(『尚書召誥』が元になっています)』はこう言っています『殷に鑒みる(周は前の王朝である殷の失敗を教訓にした。原文「鑒于有殷」)』。慎重にしなければなりません(可不慎哉)。」
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と資治通鑑』からです。
庚戌(十八日)、皇太后が詔を発しました「先帝は明聖によって祖宗の至徳の要道を奉承(継承)したので、天下が清静になり、民衆が全て安寧になりました(庶事咸寧)。今、皇帝は幼年のため憂病の中にいるように不安でいます(原文「煢煢在疚」。『孝和孝殤帝紀』の注が「憂病の中にいるように煢煢としている様子(煢煢然在憂病之中也)」と解説しています。「煢煢」は「憂慮の様子」です)。よって朕が暫く聴政を佐助(補助)します。外では大国の賢王が並んで蕃屏となり、内では公卿大夫が本朝を統理(統括治理)し、謹んで自分を律して既に完成した功績を受け継いでいます。何を憂いる必要があるでしょうか(恭己受成,夫何憂哉)。しかし守文の際(時)には、必ず内輔がいて聴断に参与するものです。侍中竇憲は朕の元兄(大兄)で、行能(素行と能力)を兼備しており、忠孝が特に篤い(厚い)ので、先帝に重用され(先帝所器)、自ら遺詔を受け取りました。旧典に基いてその職を輔すべきです(新帝を輔佐する重臣の地位に就くべきです。原文「当以旧典輔斯職焉」。「輔職」は輔弼の職に就くという意味です)。しかし竇憲は固執謙譲しました。その節を奪うことはできません。また、今は両宮(帝宮と太后宮)を供養して左右を宿衛しているので、その事(職務)が既に重くなっており、政事によってこれ以上労すこともできません。
故太尉鄧彪は元功(鄧禹)の族であり、三譲の礼がますます高く(三譲彌高)、海内が仁に帰して群賢の首となったので、先帝は(鄧彪を)褒表することで崇化(教化を推奨すること)しようと欲しました。今、鄧彪は聡明康彊(康強)なので、老成の黄耇(『孝和孝殤帝紀』によると、「老成」は老いて徳を成すことです。「黄耇」は老齢者です)ということができるでしょう。よって鄧彪を太傅に任命し、関内侯の爵を下賜して、録尚書(明帝永平十八年75年参照)とします。百官が自分の職を主持して(太傅の命を)聴けば(総己以聴)、朕は内位(皇后の位)に専心できます(庶幾得専心内)。於戲(ああ)、群公は勉めて百僚を率いてそれぞれ自分の職を修め、元元(民衆)を愛して養い、中和によって安寧させて朕の意をかなえなさい(綏以中和称朕意焉)。」
 
後漢書鄧張徐張胡列伝(巻四十四)』と『資治通鑑』胡三省注によると、鄧彪は鄧禹の親族です。父鄧邯が功を立てて中興初東漢建国当初)郷侯)に封じられました。父の死後、鄧彪は国を異母弟の鄧鳳(または「鄧荊鳳」)に譲りました。顕宗(明帝)はその節を高く評価し、詔を下して許可しました。
文中の「三譲」は周太王の長子太伯が弟の季歴に国君の地位を譲った故事を指します。
 
以下、『資治通鑑』からです。
鄧彪には義譲(義によって謙譲すること)の姿勢があり、先帝に敬重されていました。また、仁厚かつ委隨(従順)な性格でした。そのため竇憲も鄧彪を尊崇していました。
 
竇憲が事を行う時は、いつも宮外で鄧彪に上奏させ、宮内で自ら太后に話をしたため、太后が採用しないことはありませんでした。『資治通鑑』胡三省注は「王莽が孔光を用いた故智(古知恵)である」と解説しています西漢哀帝元寿二年1年参照)
しかし鄧彪は官位にいる間、自分の身を修めただけで、綱紀を匡正(矯正)することはできませんでした。
 
竇憲は性格が果急(果断性急。短気)で、睚の怨(怒って目を見開く程度の怨み。些細な怨み)でも報復しないことはありませんでした。
永平時代(明帝時代)に謁者韓紆が竇憲の父竇勳の獄を考劾(訊問弾劾)したため(竇勳は洛陽獄で死にました。明帝永平五年62年参照)、竇憲は客に命じて韓紆の子を斬殺させ、その首で竇勳の冢(墓)を祭りました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
辛酉、有司(官員)が上奏しました「孝章皇帝は鴻業(大業)を崇弘(尊崇拡大)し、徳化を普洽(普及)させ、黎民に垂意し(民に関心を抱き)、稼穡(農業)に留念しました。文を殊俗(異民族)に加え、武を四方に至らせ(武暢方表)、それが全ての人に及んで不服を思う者はいませんでした(界惟人面無思不服)。巍巍蕩蕩(道徳が崇高で恩沢が広大な様子)がこのように盛んな者はいません(莫與比隆)。『周頌詩経』はこう言っています『素晴らしい清廟よ、公卿諸侯が敬と和によって祭を助ける(原文「於穆清廟,粛雝顕相」。『孝和孝殤帝紀』の注によると、「清廟」は西周文王の廟です。「於穆」は賛美の言葉、「粛雝」は敬と和、「顕相」は公卿や諸侯が祭祀を助けることです)。』ここに尊廟(尊廟の号)を贈って粛宗とし、共に武徳の舞を進めることを請います。」
(恐らく皇太后が)(皇帝の言葉、命令)を発して「可」と言いました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
癸亥(中華書局『白話資治通鑑』は「癸亥」を恐らく誤りとしています)、陳王劉羨、彭城王劉恭、楽成王劉党、下邳王劉衍、梁王劉暢が始めて封国に赴きました。
五人とも明帝の子です。章帝が諸王との離別に忍びず京師に留めていました(章帝建初三年・78年)。しかし章帝が死んだため、それぞれ封国に派遣されました。
 
[十一] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
夏四月丙子(十五日)、和帝が高廟を謁拝しました、
丁丑(十六日)、世祖廟を謁拝しました。
 
[十二] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と資治通鑑』からです。
戊寅(十七日)、章帝の遺詔によって郡国の塩鉄の禁を廃止し、民に自由に煑鋳させることにしました(「煑」は塩の生産、「鋳」は鉄の鋳造です。章帝は塩鉄の専売を再開していました。章帝元和元年84年参照)
以下、『孝和孝殤帝紀』から詔の内容です「昔、孝武皇帝(西漢武帝)は胡・越に誅を到らしたので、暫時、塩鉄の利を収め(故権收塩鉄之利)、師旅(軍旅)の費を奉じた。中興以来は匈奴がまだ服従せず匈奴未賓)、永平(明帝時代)の末年に再び征伐を行った(復修征伐)。先帝(章帝)が即位すると、務めて力役を休めたが、なお深思遠慮し、平安になっても危難を忘れなかったので(安不忘危)、旧典を探観(探究)して再び塩鉄を収め、不虞(不測の事態)に防備して辺境を寧安(安寧)にすることを欲した。しかし吏の多くが不良なため、行動がその便を失い(行動が適切でなく)、上意に違えている。先帝はこれを恨んだので、遺戒(遺詔)によって郡国の塩鉄の禁を廃止し、民に自由に煑鋳させ、故事(前例)と同じように税を県官(朝廷。天子)に入れることにした。ここに刺史二千石に申勅(誡告)する。聖旨を奉順し、勉めて徳化を広め、天下に布告して朕の意を明らかに知らしめよ。」
 
 
 
次回に続きます。