東漢時代121 章帝(二十七) 鄧訓 88年(4)

今回で東漢章帝章和二年が終わります。
 
[十五(続き)] ちょうどこの頃、斉殤王劉石(劉縯の孫。章帝章和元年87年参照)の子に当たる都郷侯(または「郁郷侯」)劉暢が国憂(章帝の喪)の弔問に来ました。
太后がしばしば劉暢を招いて接見します。
後漢書竇融列伝(巻二十三)』によると、劉暢は素行が邪僻(不正)でした。歩兵校尉鄧疊の親属と共にしばしば京師と封国を往来しています。鄧疊の母元が長楽宮太后が住んでいます。ここでは太后を指します)と通じていたため、劉暢も竇太后の寵信を得て招かれるようになりました。
 
侍中・竇憲は劉暢が自分と宮省の権勢を分けることになるのではないか懼れました。そこで客を派遣して屯衛の中で劉暢を刺殺してしまいました。
資治通鑑』胡三省注によると、この「屯衛」は「城門屯衛(城門を守る兵の屯所)」を指します。
 
竇憲は罪を劉暢の弟に当たる利侯劉剛(章帝章和元年87年参照)に着せ、侍御史と青州刺史を派遣して共に劉剛等を審問させました。
資治通鑑』胡三省注によると、青州刺史部は斉国にあります。劉暢が京師で殺されたのに、竇憲が青州刺史に調査させたのは、獄を移して自分に対する追及を絶とうとしたからです。
 
しかし尚書潁川の人韓稜はこう考えました「賊は京師にいるので、近くを捨てて遠くを問うべきではない。恐らく姦臣に笑われることになるだろう。」
それを知った太后は怒って韓稜を厳しく叱責しましたが、韓稜は自分の意見を曲げませんでした。
 
太尉掾何敞も宋由にこう言いました「劉暢は宗室の肺府(肺腑。親族)、茅土の藩臣として(「茅土」は茅に包まれた土です。諸侯が封侯される時に与えられました。転じて「茅土」は王侯、諸侯を指すようになりました)、大憂を弔いに来ました。上書して返答を待っており(上書須報)、自ら武衛の中にいたのに、このような残酷な事件に遭ったのです(致此残酷)。しかし奉憲の吏(法を担当する官吏)は目的もなく追跡逮捕しており(莫適討捕)、蹤跡(足跡。形跡)が不明確で(蹤跡不顕)、主名も立っていません(主犯の名前も分かりません)。敞(私)は股肱の数に備わっており(太尉の部下の一員であり。原文「備数股肱」)、職は賊曹(盗賊を取り締まる官)を典じているので(管理しているので)、自ら発所(事件が発生した現場)に至り、その変(変化。進展)を督察すること(以糾其変)を欲しています。しかし二府(『資治通鑑』胡三省注によると、司徒と司空を指します)の執事(政務を行う者)が、三公は賊盗に関与する必要がないと考えているため、公然と姦慝を放縦にさせて(公縦姦慝)、咎とすることがありません。敞(私)はこれを単独で奏案することを請います(この件を単独で上奏することを請います)。」
宋由は何敞の要求に同意しました。
 
二府(司徒袁安と司空任隗)は何敞が行動を開始したと聞き、それぞれ主者(担当の官員)を派遣して何敞に従わせました。
その結果、推挙(追究検挙)して事実の詳細が得られます。
太后は怒って竇憲を内宮に閉ざしました。
竇憲は誅殺を懼れ、自ら匈奴を撃つことで死罪を贖うことを請いました。
 
冬十月乙亥(十七日)、竇憲を車騎将軍に任命し、北匈奴を討伐させました。執金吾耿秉が副(副将)になります。
北軍五校、黎陽営、雍営と縁辺十二郡の騎士および羌胡の兵が塞を出ました。
資治通鑑』胡三省注によると、北軍五校は屯騎、越騎、歩兵、長水、射声五校尉が管理する宿衛の兵です。
黎陽営は光武帝が置きました(明帝永平八年65年参照)
雍県には扶風校尉部があり、涼州付近の羌族がしばしば三輔を侵していたため、将兵が園陵を衛護していました。これを雍営といいます。
縁辺十二郡は上郡、西河、五原、雲中、定襄、雁門、朔方、代郡、上谷、漁陽、安定、北地を指します。
 
[十六] 『後漢書孝和孝殤帝紀からです。
安息国が使者を派遣して師子(獅子)と扶抜(麟麒麟に似た角がない動物)を献上しました。
 
[十七] 『資治通鑑』からです。
公卿が元張掖太守鄧訓を推挙したため、鄧訓が張紆の代わりに護羌校尉に任命されました。
 
焼当羌の迷唐が兵一万騎を率いて塞下に至りましたが、敢えて鄧訓を攻めようとはせず、先に小月氏の胡人を脅かそうとしました。
しかし鄧訓は小月氏の胡人を護衛し、迷唐に小月氏を攻める機会を与えませんでした。
議者は皆、羌と胡が互いに攻撃し合えば県官(天子。朝廷)の利になるので、戦いを止めさせて保護するのは相応しくないと考えました。
鄧訓が言いました「張紆が信を失ったため、衆羌が大動して涼州吏民の命が絲髪(細長い髪)に懸かっている。元々諸胡の意を得るのが難しいのは(異民族の心を得るのが難しいのは。原文「原諸胡所以難得意者」)、全て恩信が厚くないからである。今、追急(逼迫)に乗じて徳によって(小月氏を)懐柔すれば、あるいは用いることができるかもしれない(庶能有用)。」
 
鄧訓は城門と園門を開くように命じました。胡人の妻子を全て門内に駆け入れさせ、兵を整えて厳しく守ります。
資治通鑑』胡三省注によると、「園門」というのは護羌校尉が居住する寺舍(官舎)の後園の門です。
 
羌兵は略奪したくても得るものがなく、また、敢えて諸胡(諸胡族)を逼迫することもできなかったため、兵を解いて去りました。
この件があってから、湟中(『資治通鑑』胡三省注によると、小月氏の胡人が住んでいます)の諸胡は「漢家は常に我曹(我々)の戦闘を欲していたが、今、鄧使君(「使君」は朝廷が派遣した官員です)は恩信をもって我々を遇し、門を開いて我々の妻子を中に入れた。父母を得たのと同じである」と考え、皆、歓喜叩頭して「使君の命なら全て従います(唯使君所命)」と言いました。
鄧訓が撫養教諭(按撫・保養と教化)したため、胡人は大小全て感悦しない者がいませんでした。
 
この後、鄧訓は褒賞によって諸羌種(諸羌族を籠絡し、互いに誘って帰順させました。
迷唐の叔父号吾も種人(族人)八百戸を率いて来降します。
 
鄧訓は湟中の秦羌の兵四千人を動員して塞を出ました。
「秦人」は「漢人」です。『資治通鑑』胡三省注によると、秦が四夷を威服させたため、夷人は中国人(中原の人。漢人を秦人と呼びました。
 
鄧訓軍は寫谷(または「鴈谷」)で迷唐を襲撃して破りました。
迷唐は大小楡谷から去って頗巖谷に住み、部衆が全て離散しました。
 
 
 
次回に続きます。