東漢時代122 和帝(一) 羌族帰順 89年(1)
今回から東漢和帝の時代です。
孝和皇帝
名を劉肇といいます。
和帝は粛宗(章帝)の第四子です。実母は梁貴人ですが、竇皇后の讒言に遭って憂卒(憂死)しました。竇后が和帝を自分の子として育てます。
章帝建初七年(82年)、皇太子に立てられ、章和二年(88年)、章帝が死んで和帝が即位しました。
東漢和帝永元元年
己丑 89年
春、迷唐が故地に帰ろうとしました(迷唐は前年、鄧訓に敗れて頗巖谷に遷りました)。
鄧訓は湟中の六千人を動員し、長史・任尚にこれを指揮させました。革を縫って船を作り、箄(筏)の上に置いて河を渡ってから、迷唐を襲撃して大破します。前後して千八百余級を斬首し、生口(捕虜)二千人、馬・牛・羊三万余頭を獲ました。この戦いで迷唐一種(一族)がほとんど全滅します。
『後漢書・西羌伝(巻八十七)』には「永元元年(本年)、張紆が罪に坐して呼び戻され(坐徵)、張掖太守・鄧訓が代わりに校尉になった。(略)当時、号吾がその種人を率いて降った。校尉・鄧訓が兵を派遣して迷唐を撃った。迷唐は大・小楡谷を去って頗巖谷に移住した」とあります。
しかし『後漢書・鄧寇列伝(巻十六)』はこう書いています「章和二年(88年。前年)、護羌校尉・張紆が焼当種羌・迷吾等を誘い出して誅殺したため、諸羌が大怒して報怨しようと謀った。朝廷がこれを憂いた。公卿が鄧訓を挙げて張紆の代わりに校尉にした。(略)鄧訓が塞を出て寫谷で迷唐を襲撃した。(略)迷唐は大・小楡を去って頗巖谷に住み、その衆が全て破散した。その春、迷当が再び故地に帰って田業に就くことを欲したため、鄧訓は湟中の六千人を動員して長史・任尚に指揮させた。革を縫って船を作り、箄の上に置いて度河(渡河)してから、迷唐の廬落(帳房。少数民族の家)の大豪を襲撃して多くを斬獲した。更に敗走する羌を追撃した。任尚等は夜間に羌の攻撃を受けたが、義従の羌・胡(漢に帰順した羌・胡)が力を併せてこれを破った。前後して千八百余級を斬首し、生口二千人と馬牛羊三万余頭を獲た。一種(一族)がほぼ全滅した。」
本文に戻ります。
迷唐は余衆を集めて西に千余里移動しました。附落の小種(迷唐に附いていた羌の小族)が全て迷当に背きます。
鄧訓は帰順した者を綏接(慰撫して待遇すること)して威信を大いに振るわせました。その後、屯兵を解散してそれぞれの郡に帰らせ、弛刑徒(刑を免じる代わりに兵役に就いた囚徒)二千余人だけを留めて、別れて屯田させたり塢壁の修築をさせました。
『資治通鑑』胡三省注によると、羌が漢に反してから諸郡の兵が塞上に駐屯していました。今回、羌が敗れたので、屯兵を解散させました。
三月甲辰、始めて令を下し、詔によって郎官に任命された者は県の丞・尉の官に就かせて比秩を真にしました。
原文は「初令郎官詔除者得占丞尉,以比秩為真」です。誤訳かもしれません。
秩には「比秩」と「真秩」があり、「比秩」は「真秩」より格が下になります。
『孝和孝殤帝紀』の注は「羽林郎が(中央を)出て三百石の丞・尉を補い、自ら報告した(原文「羽林郎出補三百石丞尉自占」。恐らく羽林郎が県の丞・尉になって県政の報告をしたという意味だと思われます)。小県の丞・尉は秩三百石で、その次は四百石だった。比秩を真にするというのは、全て優遇である(皆所以優之)」と解説しています。
丞・尉の秩三百石や四百石は「真秩」です。郎官が丞・尉になる時は試用期間があり、その間は「比秩」を受け取っていたようです。今回、郎官を優遇するため、試用期間を経ずに直接「真秩」を受け取れるようにしました。
竇憲が匈奴に遠征しようとしましたが、三公、九卿が朝堂に集まり、上書して諫めました「匈奴が辺塞を侵していないのに、理由なく師を労して遠征し(無故労師遠渉)、国用を損費して(国の経費を浪費して)万里に功を求めるのは、社稷の計ではありません。」
上書が立て続けに提出されましたが、全て受理されませんでした。
宋由は竇氏との対立を懼れたため、敢えて再び署議(上奏)しなくなりました。諸卿もしだいに上書をあきらめるようになります。しかし袁安と任隗だけは正道を守って動じず、冠を脱いで朝堂で頑なに争い、前後して十回近い上書をしました。皆が二人を危懼しましたが、袁安も任隗も厳粛な態度を変えませんでした(正色自若)。
侍御史・魯恭が上書しました「国家が大憂(章帝の死)に遭ったばかりで、陛下は諒闇(喪中)におり、百姓が闕然(不完全な様子。何かが欠けている様子)としていて、三時に警蹕(皇帝が外出する時に道を清めて警護すること)の音を聞かず(「三時」は三つの季節です。章帝が死んで和帝が即位したのは春なので、ここではそれより後の夏・秋・冬を指します。和帝は即位してから喪に服しているため、外出ができません)、思念して不安ではない者はなく、その様子は何かを求めても得られない時のようです(民衆は章帝を懐かしんでおり、心が落ち着きません。原文「莫不懐思皇皇,若有求而不得」)。今、盛春の月に軍役を興発し(盛大に起こし)、天下を擾動(擾乱)して戎夷の事を行ったら、誠に中国に恩を垂らす(施す)ことにならず、改元して時を正す際、内から外に及ぼす(内を正してから外を正す)という道理にも合いません(誠非所以垂恩中国,改元正時由内及外也)。万民とは天が生んだものです。天が自分の生んだ者を愛すのは、父母が自分の子を愛すようなものです。一物でもその居場所を得られなかったら、天気がそのために舛錯(錯乱)します。それが人ならなおさらです(人が居場所を得られなくなったら、なおさら天が錯乱します)。だから民を愛す者は必ず天の報いがあるのです。戎狄というのは、四方の異気であり、鳥獣と区別がありません。もし中国に雑居したら、天気を錯乱させて善人を汙辱(汚辱)することになります。だから聖王の制では羈縻(籠絡)を絶えさせなかっただけなのです。今、匈奴は鮮卑に破られ、遠く史侯河西に隠れて塞から数千里も離れています。もしその虚耗に乗じて微弱を利にしようと欲するなら、それは義によって生まれた事ではありません(是非義之所出也)。今、(物資を)徵発したばかりなのに、大司農の調度(必要な費用、物資)が不足し、上下が逼迫して(上下相迫)、民間の急(急迫)も既に甚だしくなっています。群僚百姓が皆、不可と言っているのに、陛下(竇太后)はなぜ一人(竇憲)の計によって万人の命を棄て、(彼等の)言を思わないのでしょうか(不卹其言乎)。上は天心を観て、下は人志(人心)を察すれば、事の得失を知るに足ります。臣は中国が中国ではなくなることを恐れます。どうして匈奴だけなのでしょうか。」
侍御史・何敞が上書しました「臣が聞くに、匈奴は桀逆(強暴叛逆)を為して久しくなり、平城の囲(西漢高帝が平城で包囲された事件)と慢書の恥(匈奴が呂太后を侮る書を送った事件)という二つの屈辱は、臣子が体を棄てて命をかけるべきことでしたが(臣子所為捐躯而必死)、高祖と呂后は怒りを忍んで恨みに堪え(忍怒含忿)、放置して(匈奴を)誅しませんでした(舍而不誅)。今は匈奴に逆節の罪がなく、漢朝にも慚愧すべき恥がありません。それなのに、盛春東作(農耕)の時に大役を興動(発動)したら、元元(民衆)が怨恨して皆、不満を抱きます(咸懐不悦)。
また、衛尉・篤と奉車都尉・景のために妄りに館第(館邸)を繕脩(修繕)し、街を満たして里を絶ちました(街も里も二人の屋敷で埋められました。原文「彌街絶里」)。竇篤と竇景は親近貴臣なので、百僚の表儀(模範)と為るべきです。今、衆軍(大軍)が道にあり、朝廷が焦脣(焦唇。憂慮と緊張で口が乾くこと)し、百姓が愁苦し、県官に財用(物資費用)がないのに、突然、大第(大邸宅)を建てて玩好(好きな物)を修飾するのは(崇飾玩好)、令徳(美徳)を垂らして(施して)無窮(後世)に示すことではありません。暫く工匠を廃して北辺を専憂(専心憂慮)し、民の困難を憐れむべきです(卹民之困)。」
次回に続きます。