東漢時代124 和帝(三) 竇氏の専横 89年(3)

今回で東漢和帝永元元年が終わります。
 
[] 『資治通鑑』からです。
竇氏兄弟は驕慢放縦で、中でも執金吾竇景が最も甚だしく、奴客(家奴)や緹騎(貴人に従う騎士。『資治通鑑』胡三省注によると、執金吾には二百人の緹騎がいました)も人から財貨を強奪したり、罪人を奪取したり、婦女を奪って自分の妻にしました(妻略婦女)
そのため商賈(商人)は寇讎(仇敵)を避ける時のように閉塞しました。
また、竇景は勝手に縁辺諸郡の突騎で才力がある者を徴発しました。
しかし有司(官員)の中には敢えてこれらの事を検挙・上奏する者がいません。
 
袁安が竇景を弾劾して言いました「勝手に辺民を徴発し、吏民を驚惑(恐慌困惑)させたのに、二千石(辺郡の太守)は符信(虎符。兵符)を待つことなく、すぐに竇景の檄(文書。徴発の命令)を受け入れました。顕誅公開処刑に伏すべきです。」
また、こう上奏しました「司隸校尉と河南尹は貴戚に阿附して挙劾(検挙弾劾)しようとしません。彼等の官を免じて罪を裁くことを請います(請免官案罪)。」
これらの進言は全て放置されて回答がありませんでした。
 
竇氏の中では、駙馬都尉竇瓌だけが経書を好み、節制修身しました(節約自脩)
 
尚書何敞が封事(密封した上書)を提出しました「昔、鄭武姜が叔段を幸(寵愛)し、衛荘公が州吁を寵しましたが(どちらも春秋時代の故事です。鄭武姜は長子の荘公ではなく、少子叔段を愛しました。衛荘公も庶子州吁を愛しました。その結果、どちらの国も内争を招きました)、愛しても教えなかったため(寵愛するだけで教育しなかったため)、最後は凶戾に至りました(二人とも凶悪になりました)。これらのことを観ると、このようにして子を愛すのは、子が飢えた時に毒を使って飢えをしのがせるのと同じで、まさに子を害すことになってしまいます(猶飢而食之以毒、適所以害之也)。伏して大将軍竇憲を見るに、大憂に遭ったばかりの時は、公卿が頻繁に上奏して国事を典幹(主管)させたいと欲しても、竇憲は謙退の姿勢を堅持し(深執謙退)、盛位(高位)を固辞して懇懇勤勤(誠実懇切)としており、その言の深至(深遠。深み)を天下が聞いて、悦喜しない者はいませんでした。しかし今、年を越えてまだ間がなく、大礼(三年の喪)が終わっていないのに(『資治通鑑』は「入礼未終」としていますが、『後漢書朱楽何列伝(巻四十三)』では「大礼未終」です。『資治通鑑』の誤りです)、途中で突然態度を改めました。兄弟が専朝し、竇憲は三軍の重権を持ち(秉三軍之重)、竇篤と竇景は宮衛の権を独占し(総宮衛之権)、しかも百姓を虐用(虐待酷使)し、奢侈が度を越え(奢侈僭偪)、無罪の者を誅戮し、ほしいままに行動して自分を満足させています(肆心自快)。今は論議訩訩(紛紛。議論が紛糾している様子)としており、皆が叔段と州吁が漢に復生(再生)したと言っています。臣が観るに、公卿が心中で両端(二つの態度)を持ち、敢えて極言しないのは、このように考えているからです。もし竇憲等に匪懈の志(怠惰にならない志。勤勉な志)があるのなら、公卿は吉甫が申伯を褒めた功を受けることになり(『資治通鑑』胡三省注から解説します。申伯は西周宣王の元舅(妻の兄)で、美徳があったため、尹吉甫が詩を作って称賛しました。公卿は竇憲を支持することで、尹吉甫と同じように外戚の美徳を称賛した功を立てられると考えました)、もし竇憲等が罪辜(罪悪)に陥ったとしても、陳平、周勃が呂后に順じた便宜の計(陳平周勃順呂后之権)を取ったことにしようとしているのです。いずれにしても竇憲等の吉凶を憂としているのではありません(竇憲等の吉凶を考えてのことではありません)。臣敞は区区(小さいこと)としていますが、誠に両安の策を計り、緜緜を絶って涓涓を塞ぐことを欲しています(「緜緜」は長く続く様子、「涓涓」は水が流れる様子です。ここでは禍の源流を意味します)。上は皇太后に文母の号(文母の名声。文母は西周文王の母です。賢母として知られています)を損なわせ、陛下に誓泉の譏(「譏」は「批難」です。鄭武姜と叔段が荘公の位を奪おうとしたため、荘公は黄泉に行くまで武姜に会わないと誓いました。これが「誓泉」です。武姜は鄭荘公の母です。子が母に会わなかったら不孝として批難されます)があることを願わず、下は竇憲等がその福祐(福と庇護)を長く保てるようにさせたいと思っています。駙馬都尉竇瓌は繰り返し退身(隠退)を請い、家権を抑えることを願っているので、共に参謀(相談)してその意思をかなえさせることができます(聴順其意)。誠に宗廟の至計(最上の計)であり、竇氏の福となります。」
資治通鑑』胡三省注は「漢の外戚の中で傅喜、竇瓌、鄧康は権勢を満たしても謙退できた。しかし最後は家門の十分の一も守れなかった。一杯の水では車薪(一台の車に載せた薪)の火を消すことはできない」と解説しています。
 
当時、済南王劉康(『資治通鑑』胡三省注によると光武帝の少子です)が尊貴で甚だ驕慢でした。
そこで竇憲は太后に)報告して何敞を朝廷から出し、済南太傅にしました。
 
何敞は劉康に違失(過失)がある度に諫争しました。劉康はそれに従うことができませんでしたが、普段から何敞を敬重していたため、嫌牾(嫌悪対立)もありませんでした。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
冬十月、郡国に令を下し、(刑を免じて徭役に就くことになった囚人)を軍営に送って労役させました(輸作軍営)
徙刑(流刑)で塞を出た者は、刑期が満たされていなくても全て免じて田里に帰らせました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と資治通鑑』からです。
庚子(中華書局『白話資治通鑑』は「庚子」を恐らく誤りとしています)、阜陵王劉延(質王)が死にました。
劉延は光武帝の子です。『後漢書光武十王列伝(巻四十二)』によると、子の殤王劉沖が継ぎました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と資治通鑑』からです。
この年、九つの郡国で大水(洪水)がありました。
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代125 和帝(四) 月氏 90年(1)