東漢時代125 和帝(四) 月氏 90年

今回は東漢和帝永元二年です。
 
東漢和帝永元二年
庚寅 90
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と資治通鑑』からです。
春正月丁丑(二十六日)、天下に大赦しました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と資治通鑑』からです。
二月壬午(初二日)、日食がありました。
『孝和孝殤帝紀』の注によると、史官は日食に気づかず、涿郡が報告しました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
己亥(十九日)、再び西河と上郡に属国都尉官を置きました。
『孝和孝殤帝紀』の注によると、西河郡の美稷県と上郡の亀茲県に属国都尉があり、秩は比二千石でした。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と資治通鑑』からです。
夏五月庚戌(初一日)、太山郡(泰山郡)を分けて済北国を置き、楽成国、涿郡、勃海郡を分けて河間国を置きました。
資治通鑑』胡三省注によると、済北、河間、城陽西漢時代には王国でしたが、光武帝が済北国を除いて泰山郡と併せ、河間国を除いて信都郡と併せ、城陽国を除いて琅邪国と併せました。今回、再び泰山郡を分けて済北国を置き、楽成国、涿郡、勃海郡を分けて河間国を置き、琅邪郡を分けて城陽国を置きました。
 
丙辰(初七日)、皇弟(和帝の弟)劉寿を済北王に、劉開を河間王に、劉淑を城陽王に封じました。
 
また、元淮南王劉昞(頃王)の子劉側に父の祭祀を継がせて常山王に封じました(章帝章和元年87年参照)
 
公卿以下、佐史に至るまで、それぞれ差をつけて銭布を下賜しました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と資治通鑑』からです。
竇憲が副校尉閻盤(『資治通鑑』胡三省注によると、「閻礱」「閻槃」とも書きます)を派遣し、二千余騎を率いて伊吾を守る北匈奴兵を襲撃させました。漢が再び伊吾の地を取ります(伊吾は章帝建初二年77年に漢が屯兵を撤収し、匈奴支配下に入っていました)
 
震慴(震撼)した車師の前後王がそれぞれ子を送って東漢に入侍させました。
 
[] 『後漢書・孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
月氏東漢の公主との婚姻を求めました。
しかし西域長史・班超が拒否して使者を送り帰します。
これが原因で月氏が怨恨を抱き、副王謝を派遣して兵七万で班超を攻撃させました。
 
班超の兵が少なかったため、皆が大いに恐れました。
しかし班超は軍士を諭してこう言いました「月氏は兵が多いが数千里も離れた所から葱嶺を越えて来る。運輸がないのに、何を憂いるのだ(非有運輸何足憂邪)穀物を回収して堅守するだけで、彼等は飢窮して自ら降る。数十日を越えずに決するだろう。」
 
副王謝が進軍して班超を攻めましたが、攻略できませんでした。
鈔掠(略奪)しようとしても得る物がありません。
班超は月氏の食糧がもうすぐ尽きて、必ず亀茲に食糧を求めるはずだと予測し、数百の兵を派遣して東界で邀撃させました。
 
班超の予想通り、副王謝が亀茲に騎馬を派遣しました。使者は礼物として金銀珠玉を携行しています。
班超の伏兵が月氏の使者を遮って攻撃し、全て殺しました。
その後、使者の首を持って副王謝に示します。
謝は大いに驚いてすぐに謝罪の使者を送り、生きて帰ることを願いました。班超は謝等を赦して全て帰国させます。
月氏は大震(震撼)して東漢に降り、毎年貢物を献上するようになりました。
 
[] 『後漢書・孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
以前、北海哀王が死に、後嗣がいませんでした(章帝元和三年86年)
北海哀王は劉基といい、劉基の父は劉睦(北海敬王)、劉睦の父は劉興(北海靖王)で、劉興の父は劉縯(斉武王。光武帝の兄)です。
 
粛宗(章帝)は斉武王・劉縯に首創(建国)の大業があるのに後嗣が廃絶したため、心中で常に憐れんでいました。
そこで、遺詔によって斉と北海の二国を恢復させることにしました(斉では章帝章和元年87年に劉晃が王から蕪湖侯に落とされました。劉晃の父は煬王劉石、劉石の父は哀王劉章で、劉章の父が劉縯です)
 
丁卯(十八日)、元斉王劉晃の子に当たる蕪湖侯劉無忌を斉王に、北海敬王劉睦の庶子に当たる劉威を北海王に封じました。
 
[] 『後漢書・孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
六月辛卯(十二日)、中山王劉焉(簡王)が死にました。
 
劉焉は東海恭王劉彊の同母弟光武帝と郭聖通の子)で、竇太后は劉彊の甥(この「甥」は娘の子、外孫の意味です)に当たります(竇太后の母は沘陽公主で、劉彊の娘です)
そのため竇太后は賻銭(葬儀の費用)一億を加え、大規模な冢塋(墳墓)を建設しました。周辺から千を数える吏民の冢墓が撤去されます。また、作者(役夫)は万余人に上り、合わせて六州十八郡から徴発して各地を搖動(動揺混乱)させました。
 
後漢書光武十王列伝(巻四十二)』によると、劉焉の在位年数は五十二年に及びます。子の夷王・劉憲が跡を継ぎました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
(和帝は翌年に元服するので、この詔は竇太后によるものだと思われます)を発して竇憲を冠軍侯に、竇篤を郾侯に、竇瓌を夏陽侯に封じました。
しかし竇憲だけは封侯を受け入れませんでした。
 
[] 『後漢書・孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月乙卯(初七日)、大将軍・竇憲が出兵して涼州に駐屯しました。
侍中鄧疊に征西将軍の職務を代行させて(行征西将軍事)竇憲の副(副将)にしました。
 
[十一] 『資治通鑑』からです。
前年、北単于が弟を漢に送って入侍させましたが、漢は送り帰しました。
九月、北単于が再び使者を送って塞を訪ね、臣を称して入朝を欲しました。
 
冬十月、竇憲が班固と梁諷を派遣して北単于を迎え入れさせました。
『孝和孝殤帝紀』と『後漢書竇融列伝(巻二十三)』は班固を「行中郎将」としており、『後漢書班彪列伝下(巻四十下)』は「行中郎将事」としています(『資治通鑑』は班固の官職を省略しています)。どちらも「中郎将代行」の意味ですが、何の中郎将かはわかりません。当時の使匈奴中郎将は耿譚のようです(下述)
また、『後漢書・孝和孝殤帝紀』は「行中郎将班固を派遣して南単于を訪問させた(原文「遣行中郎将班固報命南単于」。「報命」は「使者として他国を訪問する」という意味です)」と書いていますが、恐らく「南単于」は「北単于」の誤りです。『班彪列伝下』では北単于を迎え入れるために、班固が数百騎と虜使北匈奴の使者)を連れて居延塞を出ています。
後漢書竇融列伝(巻二十三)』でも竇憲が大将軍中護軍班固を行中郎将に任命し、司馬梁諷と共に北単于を迎えに行かせています。
 
本文に戻ります。
この時、ちょうど南単于東漢に上書し、改めて北庭を滅ぼすことを求めました。同時に左谷蠡王師子(師子が名です)等を派遣し、左右部八千騎を率いて雞鹿塞から出撃させます。中郎将(『資治通鑑』胡三省注によると、「使匈奴中郎将」です)耿譚も従事を派遣して左谷蠡王を監護させ、北単于を襲撃しました。
 
後漢書孝和孝殤帝紀』は「左谷蠡王師子を派遣し、雞鹿塞から出て河雲の北で北匈奴を撃たせ、これを大破した(遣左谷蠡王師子出雞鹿塞,撃北匈奴於河雲北,大破之)」と書いており、東漢が左谷蠡王師子を出兵させたと読めます。
しかし『竇融列伝』には「この時ちょうど北単于南匈奴に破れた」、『班彪列伝下』には「ちょうど南匈奴が北庭を襲って破った」とあり、『南匈奴列伝』は「南単于が再び上書して北庭を滅ぼすことを求めた。同時に(原文「於是」。「ここにおいて」「その時」の意味です)、左谷蠡王師子等に左右部八千騎を率いて雞鹿塞から出撃させた。中郎将耿譚が従事を派遣してこれを監護させた」と書いています。
左谷蠡王を出撃させたのは南匈奴であり、『孝和孝殤帝紀』の記述は主語南匈奴を省略しているようです。
資治通鑑』は『南匈奴列伝』の記述に従っています。
 
本文に戻ります。
夜、南匈奴軍が到着して北単于を包囲しました。北単于は負傷しましたが、なんとか逃げ延びます。
南匈奴が閼氏および男女(北単于の息子と娘)五人を捕え、斬首は八千級、生虜(捕虜)は数千口に上りました。
 
単于を迎えに行った班固は私渠海に至りましたが、帰国しました。
 
当時、南部は党衆(部衆)がますます強盛になっており、三万四千戸を治めて勝兵(士兵)五万を擁していました。
 
 
 
次回に続きます。