東漢時代127 和帝(六) 匈奴問題 91年(2)

今回は東漢和帝永元三年の続きです。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と資治通鑑』からです。
冬十月癸未(十二日)、和帝が長安行幸しました。
和帝が詔を発しました「北狄(北匈奴)が破滅して名王が頻繁に降り、西域諸国が質(人質)を納めて内附した。これが祖宗の迪哲重光(「迪哲」は明哲な道を歩むこと、「重光」は光を重ねることです)による鴻烈(大業)でないはずがない(豈非祖宗迪哲重光之鴻烈歟)(朕は)寝ても覚めても(原文「寤寐」「寤」は起床の時、「寐」は就寝の時)嘆息して旧京(長安)を想望する。よって行幸で通過した場所の二千石・長吏以下、三老、官属に及ぶまで、それぞれ差をつけて銭帛を下賜し、鰥寡(配偶者を失った男女)孤独(孤児や身寄りがない老人)𤸇(重病の者)貧しくて自存できない者には一人当たり粟三斛を与える。」
 
十一月癸卯(初二日)、和帝が高廟を祀り、その後、十一陵で祭祀を行いました。
和帝が詔を発しました「高祖の功臣は蕭(蕭何曹参)が首であり、伝世不絶の義(代々継承させて途絶えさせない道理)がある。曹相国の後代である容城侯には後嗣がいない。朕は長陵東門を望み、二臣の壠(土を盛って造った墓)を見た(『孝和孝殤帝紀』の注によると、蕭何の墓は長陵の東司馬門を出て道の北側百歩の場所にありました。曹参の墓は長陵傍の道の北にあり、近くに蕭何の墓がありました)。その遠節を考えると、いつも感慨する(循其遠節每有感焉)。忠義が寵を獲るのは古今とも同じだ。よって使者を派遣して中牢(豚と羊を犠牲に使う祭祀の規格)で祀らせ、大鴻臚に近親で後嗣に立てるにふさわしい者を求めさせ、景風(『孝和孝殤帝紀』の注によると、夏至から四十五日後に「景風」が吹き、功績がある者を封侯しました)を待って紹封(継承封爵)することでその功を明らかにする(以章厥功)。」
こうして蕭何と曹参の子孫を求めて封邑を継承させました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
和帝が詔を発し、竇憲を長安に招いて車駕(和帝)と会見させました(当時、竇憲は涼州にいました。前年参照)
 
竇憲が到着した時、尚書以下の者が議論して、竇憲を拝してから伏して万歳を称えようとしました。
尚書韓稜が色を正して(厳粛な態度で)言いました「上と交わっても媚びてはならず、下と交わっても侮ってはならないものです(原文「上交不諂,下交不瀆」。『易経』の言葉です)。礼において人臣に万歳を称えるという制(制度)はありません。」
議論した者は皆、恥じ入って中止しました。
 
尚書左丞王龍が個人的に竇憲に文書を送って(私奏記)牛酒を献上しました。
韓稜が上奏して王龍を弾劾したため、王龍は城旦(城壁の修築や警護をする苦役の刑)に処されました。
資治通鑑』胡三省注によると、尚書には左丞と右丞が各一人おり、秩はどちらも四百石でした。
 
[] 『後漢書・孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
亀茲、姑墨、温宿といった西域諸国が東漢に降りました。
 
十二月、東漢が再び西域都護、騎都尉、戊己校尉の官を置きました(西域都護と戊己校尉は章帝建初元年76年に廃されました)
班超を西域都護に、徐幹を長史に任命します。
 
また、東漢朝廷は亀茲の侍子白霸を亀茲王に立てて、司馬姚光に送り還らせました。
班超は姚光と共に亀茲を脅かして王尤利多を廃し、白霸を擁立します。
その後、班超は姚光に尤利多を連れて京師に還らせました。
 
班超は亀茲国の它乾城に住み、徐幹は疏勒国に駐屯しました。
焉耆、危須、尉犂だけは以前、西域都護を殺したため(恐らく明帝永平十八年75年に焉耆と亀茲が西域都護陳睦を攻めた事件を指します)、二心を抱いていましたが、それ以外の国は全て東漢に降りました(其余悉定)
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀からです。
庚辰、和帝が長安から雒陽に還りました。
和帝に随行した刑徒(刑を免じて労役を科された囚人)の刑を五カ月減らしました(減刑徒従駕者刑五月)
 
[] 『資治通鑑』からです。
単于が滅んでから、弟の右谷蠡王於除鞬が自ら単于に立ちました。北匈奴の衆数千人を率いて蒲類海に留まり、使者を送って東漢の辺塞を訪ねさせます。
 
竇憲が匈奴に使者を派遣して於除鞬を正式に単于に擁立し、中郎将を置いて南単于のように領護することを請いました。
 
和帝はこの意見を公卿に下して議論させました。
宋由等は竇憲の意見に同意するべきだと主張しましたが、袁安と任隗が上奏してこう言いました「光武が南虜を招懐したのは(懐柔して内地に招いたのは)、永遠に内地に安んじさせることができると考えたからではなく、正に暫時の便宜であり(正以権時之算)北狄に対する扞禦(防御)を得ることができたからです。今は朔漠(北方の砂漠地帯)が既に定まったので、南単于を北庭に還らせ、併せて降衆北匈奴の民)を統領させるべきです。改めて於除鞬を立てて国費を増やす縁(理由)はありません。」
袁安等の上奏文が提出されましたが、すぐには決断されませんでした。
 
袁安は竇憲の計が実行されることを懼れ、単独で封事(密封した上書)を提出しました「南単于(屯屠何。休蘭尸逐侯鞮単于の先父が衆を挙げて徳に帰し(漢に帰順し)(漢の)恩を蒙ってから四十余年になり、三帝の積累光武帝、明帝、章帝が積み重ねた業績)が陛下に送られました。陛下はまさに先志(先帝の意志)を追述(思念遵守)してその業を成就させるべきです(深宜先志成就其業)。そもそも屯(屯屠何)が大謀を首創したから北匈奴を滅ぼすという大謀を最初に提唱したから)、北虜を空尽にし北匈奴を滅ぼし)(戦を)止めて図る必要がなくなったのです(輟而弗図)。それなのに新降(新たに降った於除鞬)を立てたら、一朝の計によって三世の規(法則。計画)に違え、養ってきた者に対して信を失い、功がない者を立てることになります。『論語』はこう言っています『言葉に忠信があって行動が篤敬(敦厚恭敬)なら、たとえ蛮貊の地でも通用する(言忠信,行篤敬,雖蛮貊行焉)。』今、もし一屯(一人の屯屠何)に対して信を失ったら、百蛮が敢えて再び誓いを保とうとしなくなります(漢との約束を守らなくなります。原文「百蛮不敢復保誓矣」)。また、烏桓鮮卑が北単于を殺したばかりなので(章帝章和元年87年、鮮卑が優留単于を斬りました)、通常の人の情によるなら(凡人之情)、皆が仇讎を畏れています北匈奴烏桓鮮卑が互いに畏れ怨みあっています。原文「咸畏仇讎」)。それなのに今、その弟を立てたら、二虜烏桓鮮卑(東漢に対して)怨みを抱きます。しかも漢の故事によるなら、南単于に供給する費(費用)は年間一億九十余万に値し(直歳一億九十余万)、西域は年間七千四百八十万に値します(歳七千四百八十万)。今、北庭は更に遠いので、その費は倍を越えます。これは天下を空尽にさせることであり、政策を制定する要(要点。正しい原則)ではありません(非建策之要也)。」
 
和帝が詔を発して群臣に議論させました。
袁安はまた竇憲と詰問し合います(更相難折)
竇憲は権勢を盾に凶暴な態度で臨み(険急負勢)、言辞が驕訐(傲慢で人を攻撃すること)で、袁安を詆毀(誣告)して光武帝が韓歆と戴渉を誅殺した故事も引用しました(大司徒韓歆は直諫が原因で光武帝建武十五年39年に死に、大司徒戴渉は罪に坐して光武帝建武二十年44年に死にました。袁安も司徒です)
 
袁安は最後まで意見を変えませんでしたが、結局、和帝は竇憲の策に従うことにしました。
 
尚、竇憲は昨年から涼州に駐屯しており、本年十一月に長安で和帝と会見しました。雒陽に帰るのは翌年のことなので、竇憲は涼州または長安から雒陽の朝廷に上書したようです。袁安との議論も直接行われたのではなく、文面でのやり取りか、竇憲の腹心との論争ではないかと思われます。
 
また、『後漢書袁張韓周列伝(巻四十五)』を見ると、竇憲が北虜との間に恩を結ぼうとして、投降した左鹿蠡王阿佟を北単于に立てようとしました。
この意見に太尉宋由、太常丁鴻、光禄勳耿秉等の十人が賛成しましたが、袁安と任隗が反対し、宗正劉方、大司農尹睦も袁安を支持しました。
袁安と竇憲の激しい論争の末、竇憲は匈奴から降った右鹿蠡王(右谷蠡王)於除鞬を単于に立てました。
 
しかし、『後漢書南匈奴列伝(巻八十九)』には「北単于の弟右谷蠡王於除鞬が自立して単于になった。右温禺鞬王、骨都侯以下の衆数千人を率いて蒲類海に留まり、使者を送って塞を訪ねた。大将軍竇憲が於除鞬を北単于に立てることを上書し、朝廷はこれに従った」と書かれており、「阿佟」の名はありません。
資治通鑑』胡三省注によると、袁宏の『後漢紀』はこう書いています「宋由、丁鴻、尹睦は阿脩(阿佟)が誅君の子(誅殺された単于の子)であり、烏丸、鮮卑との間に父兄の讎があるので烏桓鮮卑に対して父兄を殺された仇があるので)単于に立てるべきではないと主張した。また、南単于は先帝が置いた単于で、今回、北虜を始めに破って大功を建てたばかりなので、降衆を併せて統領させるべきだと主張した。」「最後は袁安の議(意見)に従った。」
後漢紀』の内容は范瞱の『後漢書』と一致しない個所があり、「袁安の意見に従った」という部分は恐らく誤りなので、『資治通鑑』は『後漢書』の『南匈奴列伝』と『袁張韓周列伝』に従い、「阿佟」の記述を削っています(以上、『資治通鑑』胡三省注参照)
 
 
 
次回に続きます。