東漢時代129 和帝(八) 竇氏誅滅 92年(2)
今回は東漢和帝永元四年の続きです。
竇氏の父子兄弟は並んで卿校になり(『資治通鑑』胡三省注によると、「卿」は「九卿」、「校」は「諸校尉」です)、朝廷に充満していました。また、穰侯・鄧疊と鄧疊の弟・歩兵校尉・鄧磊およびその母・元(姓はわかりません)、更に竇憲の女壻(娘婿)である射声校尉・郭挙と郭挙の父にあたる長楽少府・郭璜も共に交流を結び(『資治通鑑』胡三省注によると、太后が長楽宮に住んでおり、少府がありました。少府は皇族の財貨物資を管理します。秩は二千石です)、元も郭挙も禁中に出入りしていました。
しかも郭挙は太后の寵幸を得ています。
彼等はやがて秘かに弑逆(皇帝の殺害)を謀るようになりました。
『後漢書・孝和孝殤帝紀』は『資治通鑑』と異なり、郭璜等についてこう書いています「射声校尉・郭璜、郭璜の子で侍中の郭挙(『資治通鑑』では郭挙が射声校尉です)、衛尉・鄧疊(『資治通鑑』では鄧疊が衛尉かどうかはわかりません)、鄧疊の弟で歩兵校尉の鄧磊」。
また、『後漢書・孝和孝殤帝紀』『後漢書・竇融列伝(巻二十三)』『資治通鑑』とも竇憲等がなぜ和帝を殺害しようとしたのか、明確にしていません。恐らく、元服した和帝が実権を握ることに不満を抱いたのだと思われます。
本文に戻ります。
和帝は竇氏の陰謀を秘かに知りました。
しかし竇憲の兄弟が専権しているため、和帝には内外の臣僚と親しく接する機会がなく、一緒にいるのは閹宦(宦官)だけでした。
和帝は朝廷の上下百官で竇憲に附いていない者がいない中、中常侍・鉤盾令(『資治通鑑』胡三省注によると、鉤盾令は秩六百石で宦者が担当しました。少府に属し、皇宮周辺の池や苑囿等、遊観する場所を管理します)・鄭衆だけが慎重機敏で、心中に考えがあって豪党(豪強な徒党。竇氏の一党)に従っていないと考え、鄭衆と謀って竇憲誅殺を決意しました。しかし当時の竇憲は外にいたため(涼州に駐屯していた時の事です)、兵を擁して乱を為すことを考慮し、暫く我慢して政変を発動せずにいました。
本年四月、竇憲と鄧疊が京師に還りました。
当時は清河王・劉慶(章帝の元皇太子。和帝の異母兄)が特に厚い恩遇を受けており、頻繁に宮中に入って宿泊していました(入省宿止)。和帝は竇憲誅殺の謀を発する前に『外戚伝(『漢書・外戚伝』です)』を読みたくなりました。しかし左右の者を懼れたため使いを出すことができません(『外戚伝』を求めていることが竇氏に知られたら危険になります)。そこで劉慶に命じて個人的に千乗王・劉伉から借りさせ、その夜、劉慶だけを単独で中に入れました。
庚申(二十三日)、和帝が北宮を訪ねて詔を発しました。執金吾と五校尉に兵を整えて南・北宮に屯衛させます。
配置が終わると城門を閉じて竇氏の党に属す郭璜、郭挙、鄧疊、鄧磊を逮捕しました。皆、獄に下されて命を落とします。
その後、和帝は謁者僕射を派遣して竇憲から大将軍の印綬を回収し、改めて冠軍侯に封じました。
竇憲は和帝永元二年(90年)に冠軍侯に封じられましたが、受け入れませんでした。今回、和帝は竇憲を再び封侯して国に赴かせることにしました。
竇憲と弟の竇篤、竇景、竇瓌が皆、封国に送り出されます。
竇憲、竇篤、竇景は封国に到着してから強制されて自殺しました(迫令自殺)。
以前、河南尹・張酺がしばしば正法によって竇景を制裁しました。
後に竇景が復位してから、掾・夏猛を派遣して個人的に張酺に謝意を伝えてこう言いました「鄭據は小人なので、私が侵冤されることになりました(侵犯されて冤罪を受けました)。聞くところによると、その児(子)が吏になって放縦狼藉しているとのことです。彼の子一人を捕まえれば百人を驚かせる(警告する)に足ります(取是曹子一人足以驚百)。」
張酺は逆に激怒して夏猛を逮捕し、獄に繋げました。その上で檄言を執金吾府に送り、「夏猛は鄭據の子と不平(不仲)なため、卿(竇景)の意を偽って語り、私讎に報いようとしている疑いがある」と告げました。
ちょうど贖罪令があったため夏猛は釈放されました。
暫くして張酺は朝廷に招かれて河南尹になりました。
ある日、竇景の家人が市卒(市門の小吏)を襲って怪我をさせたため、官吏が家人を逮捕しました。
すると竇景が逆に怒って緹騎・侯海等五百人を派遣し、市丞を殴打して負傷させました。
張酺の部吏・楊章等が窮究(追究)して侯海の罪を正し、朔方に流刑にしましたが、これにも竇景が忿怨(憤怒怨恨)します。
竇景は書を送って楊章等六人を執金吾吏として招き、報復の機会を探そうとしました。
楊章等は惶恐(恐怖)して張酺に報告に行き、自ら臧罪(貪汚の罪)によって引退することで竇景の命を辞退しようとしました。
張酺はこの状況を朝廷に上書します。
以下、『資治通鑑』からです。
竇氏が敗れてから、張酺が上書して言いました「竇憲等が寵貴を得ていた時は、群臣が阿附して及ばないことだけを恐れ(竇氏を満足させられないことを恐れ。原文「唯恐不及」)、皆、竇憲は顧命の託(先帝の遺命)を受けて伊・呂(商王朝の伊尹と西周の呂尚)の忠を抱いていると言い、ひどい者は鄧夫人(『資治通鑑』胡三省注によると、鄧夫人は鄧疊の母・元を指します)を文母(西周文王の妃、武王の母)になぞらえました(至乃復比鄧夫人於文母)。しかし今、厳威(厳粛な威信)が既に行われると、皆が(竇氏は)死に当たると言い、前後を顧みることなく、何が正しいかを考察分析しようともしません(原文「考折厥衷」。「衷」は「中正」「適切なこと」です)。臣が伏して見るに、夏陽侯・竇瓌はいつも忠善を保ち、以前、臣と話をした時も、常に尽節の心(節を尽くす心)を持っていました。賓客を検敕(制約)して法を犯したこともありません。臣は王政における骨肉(親族)の刑には三宥の義(三回罪を赦すという道理)があり、(恩情が)厚すぎることはあっても薄すぎることはない(過厚不過薄)と聞いています。今、議者は竇瓌のために厳能の相を選ぼうと欲していますが、(竇瓌が)追い込まれて完免(保全)できなくなることを恐れます(恐其迫切必不完免)。裁きに寛恕を加えて厚徳を増大させるべきです(宜裁加貸宥以崇厚徳)。」
和帝が張酺の言に感じ入ったため、竇瓌だけは安全を得られました。
かつて、梁氏が竇氏の讒言によって九真に遷されました(章帝建初八年・83年参照)。
永元九年(97年)、梁棠兄弟(章帝建初八年に獄死した梁竦の子です)が九真から還ることになり、途中で長沙を通った時、竇瓌に迫って自殺させました。
『資治通鑑』に戻ります。
竇氏の宗族・賓客で竇憲によって官に就いた者は全て免じて故郡(故郷の郡)に帰しました。
竇氏が破れてから、种兢が竇氏の賓客を逮考(逮捕拷問)した機会に班固を逮捕しました。班固は獄中で死にます。
班固は『漢書』を著していましたが、まだ完成せず死んでしまいました。
和帝は詔を発して班固の妹に当たる班昭に後を継がせ、『漢書』を完成させました。
班昭は曹寿という者に嫁いだため、「曹大家」ともよばれています。古代の「大家」は女子に対する尊称です。和帝永元十四年(102年)にも触れます。
「班固の序事(著述)は過激にならず(不激詭)、過小も誇張もなく(不抑抗)、豊富だが雑乱とせず(贍而不穢)、詳細だが系統があり(詳而有体)、読む人を亹亹(勤勉な様子、または絶えなく続く様子)とさせて(何回読んでも)飽きさせない(亹亹而不厭)。真にそのおかげで名を成したのである(信哉其能成名也)。
但し、班固は司馬遷の是非(善悪・正否)の判断が聖人から頗謬(乖離)していると批判したが、班固自身の論議もしばしば死節を排除し、正直を否とし、自分の身を殺して仁を為した美徳についても述べなかった。(班固は)仁義を軽んじて守節をあなどること甚だしかった(軽仁義賎守節甚矣)。」
次回に続きます。