東漢時代130 和帝(九) 鄧訓の死 92年(3)

今回で東漢和帝永元四年が終わります。
 
[] 『資治通鑑』からです。
以前、竇憲が妻を娶った時、天下の郡国が慶賀して礼物を贈りました。
漢中郡も祝賀のために官吏を送ろうとしましたが、戸曹(『資治通鑑』胡三省注によると、郡には戸曹がおり、民戸、祠祀(祭祀)、農桑を管理しました)李郃が諫めて言いました「竇将軍は椒房の親(皇后の親族)としての徳礼を修めず専権驕恣しているので、危亡の禍がすぐに訪れます(原文「翹足而待」。「翹足」は「足を挙げる程度の短い時間」という意味です)。明府(太守)が王室(皇室)に対して一心になり、(竇氏と)交通(交流)しないことを願います。」
それでも太守は頑なに使者を送ろうとしました。李郃は制止できないと知り、自ら使者になることを求めて太守に許可されました。
李郃は至る所でわざと停留して形勢の変化を観察しました。扶風に至った時、竇憲が封国に送り出されます。
竇憲と交流があった者は皆、連座して官を免じられましたが、李郃のおかげで漢中太守だけは影響を受けませんでした。
 
[] 『資治通鑑』からです。
和帝は竇氏誅滅を助けた清河王劉慶に奴婢、輿馬、銭帛、珍宝を下賜して邸宅を充実させました。
劉慶の体がすぐれない時があると、和帝は朝も夕も人を送って状態を訪ね、膳薬(食事と薬)を進めました。和帝の関心が行き届きます(垂意甚備)
劉慶も小心恭孝(慎重かつ友愛)で、自分自身が廃黜(皇太子廃位)に遭ったため、事に対して特に畏れを抱き、法に対して慎重でした(畏事慎法)。そのおかげで寵禄(恩寵と厚禄)を保つことができました。
 
和帝が袁安の子袁賞を郎に、任隗の子任屯を歩兵校尉に任命しました。
袁安と任隗が竇氏に阿附しなかったからです。
 
鄭衆を大長秋に抜擢しました。
資治通鑑』胡三省注によると、大長秋は秩二千石で、皇后に仕える官です。秦代は「将行」といい、西漢景帝が「大長秋」に改めました。西漢時代は士人を用いることもありましたが、中興東漢建国)以後は常に宦者を用いるようになりました。
 
和帝が勲功を記録して賞を与える時(策勲班賞)、鄭衆はいつも辞退の言葉が多く、受け取る物が少なかったため、和帝は鄭衆を賢人だと思い、政事の議論を共にするするようになりました。
東漢における宦官の用権(権勢を掌握すること)はここから始まります。
 
[十一] 『後漢書・孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月己丑(二十三日)、太尉宋由が竇氏の党として策免(策書による罷免)され、自殺しました。
 
[十二] 『後漢書・孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
八月辛亥(十五日)、司空任隗が死にました。
『孝和孝殤帝紀』の注によると、任隗は任光の子です。任光は光武帝時代の功臣・雲台二十八将の一人です。
 
[十三] 『後漢書・孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
癸丑(十七日)、大司農尹睦を太尉に任命しました。
 
太傅鄧彪が老病のため枢機の職を返上したため(「枢機の職」は尚書を指します。鄧彪は録尚書事でした)、和帝は詔によってそれを許可し、代わりに尹睦を録尚書事にしました。
 
[十四] 『後漢書孝和孝殤帝紀からです。
丁巳(二十一日)、和帝が公卿以下佐史に及ぶ官員にそれぞれ差をつけて銭穀を下賜しました。
 
[十五] 『後漢書孝和孝殤帝紀と『資治通鑑』からです。
冬十月己亥、宗正劉方を司空に任命しました。
 
[十六] 『後漢書・孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
武陵、零陵、澧中の蛮人が叛しました。
翌年、平定されます。
 
[十七] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
十二月壬辰、和帝が詔を発しました「今年、郡国の秋稼(秋の収穫)が旱蝗によって損傷された。よって、(損害が)十分の四以上の者は田租芻稾(飼料)を徴収しないことにする(其什四以上勿收田租、芻稾)(十分の四に)満たない者は実情に基いて免除する(有不満者以実除之)。」
 
[十八] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
この年、護羌校尉鄧訓が死にました。
朝から晩まで吏民や羌胡が追悼に訪れ、毎日数千人に達しました。
胡のある者は刀で自分を斬り、また犬馬や牛羊を刺殺してこう言いました「鄧使君(「使君」は朝廷が派遣した地方の長官です)が既に死んだ。我々も共に死ぬだけだ(我曹亦俱死耳)。」
 
鄧訓が護烏桓校尉だった時の吏士(前烏桓吏士)が皆、弔問のために道路を奔走したため、城郭が空になるほどでした。官吏が捕まえても吏士は従いません。
官吏がその情況を校尉(『資治通鑑』胡三省注は「烏桓校尉(護烏桓校尉)のはずだ」と解説しています)に報告すると、徐は嘆息して「これは義のためである(此為義也)」と言い、捕まえた者を釈放させました。
この後、家々が鄧訓のために祠を建て、疾病がある度に祈祷して福を求めるようになりました(請禱求福)
 
蜀郡太守聶尚が鄧訓に代わって護羌校尉になりました。
聶尚は恩徳によって諸羌を懐柔しようとし、訳使(通訳の使者)を派遣して焼当羌の迷唐を招きました。迷唐がかつて拠点にしていた大小楡谷に焼当羌を帰らせてそこに住ませます。
資治通鑑』胡三省注は「鄧訓は迷唐を駆逐したが、聶尚はこれを招いた。鄧訓の政治を覆そうと欲したのである」と解説しています。
 
迷唐は帰還してから祖母卑缺(『資治通鑑』胡三省注は「迷吾の母のはずだ」としています)を派遣して聶尚を訪ねさせました。
卑缺が帰る時、聶尚が自ら塞下まで送り、祖道(餞別の宴)を設けました。
更に聶尚は訳(通訳)の田汜等五人を派遣して廬落(住居)まで護送させます。
 
ところが大小楡谷に戻った迷唐はまた叛しました。諸種(諸族)と共に田汜等を生きたまま屠裂(四肢を分断して殺すこと)し、その血で盟を結んで誓いを立てます(以血盟詛)
その後、迷唐等は金城塞を侵しました。
聶尚は罪を問われて罷免されました。
 
迷唐が東漢に背いた理由を『後漢書西羌伝(巻八十七)』も『資治通鑑』も明確にしていません。
恐らく、鄧訓は迷唐を懐柔できないと判断して駆逐したのに、聶尚が迷唐を呼び戻して肥沃な大小楡谷に帰らせたため、離反を招くことになったのだと思われます。あるいは田汜等に無礼な言動があったのかもしれません。
 
 
 
次回に続きます。