東漢時代131 和帝(十) 良才の選挙 93年(1)

今回は東漢和帝永元五年です。二回に分けます。
 
東漢和帝永元五年
癸巳 93
 
[] 『後漢書・孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月乙亥(十一日)、和帝が明堂で宗祀(祖宗の祭祀)を行い、その後、霊台に登って雲物を望みました。
天下に大赦しました。
 
[] 『後漢書・孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
戊子(二十四日)、千乗王劉伉(貞王)が死にました。
劉伉は章帝の子、和帝の兄です。
後漢書章帝八王伝(巻五十五)』によると、劉伉の子劉寵が跡を継ぎました。劉寵は一名を伏胡ともいいます。諡号は夷王です。
永元七年95年)に国名を楽安国に改められます。
 
[] 『後漢書・孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
辛卯(二十七日)、皇弟(和帝の弟)劉万歳を広宗王に立てました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
二月戊戌(初五日)、和帝が有司(官員)に詔を発し、内外の厩および涼州諸苑の馬を削減させました。
また、京師の離宮果園、上林広成囿(上林苑と広成苑の園地)を全て貧民に貸し与え、自由に采捕(植物や動物の採取捕獲)させて税を徴収しないことにしました。

[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
丁未(十四日)、和帝が詔を発しました「去年の秋麦の収穫が少なかったので、民の食が不足することを恐れる。よって特に貧困で自給できない者の戸口人数を報告させる。以前は郡国が貧民を報告する時、衣履釜鬵(食器)を貲(財産)とみなしたため、豪右がその饒利(利益)を得た(『孝和孝殤帝紀』の注によると、衣履や食器等の所有状況を根拠に貧困の程度が決められたため、貧民は税が重くなることを恐れて日用品を売り払いました。豪富の家はそれに乗じて安く買い入れて利益を得ました)。また、詔書は実覈(事実を考察すること)を命じて(貧民の)益となることを欲したが(欲有以益之)、長吏は自ら行動することができず不能躬親)、逆に(民を)集めて会議を開き(反更徵召会聚)、農作を失わせ(農事に影響をもたらし)、百姓を愁擾(苦悩。攪乱)させた。もしまた犯す者がいたら、二千石(太守国相)が先に(罪に)坐ずことにする(若復有犯者,二千石先坐)。」
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と資治通鑑』からです。
甲寅(二十一日)、太傅鄧彪が死にました。
資治通鑑』は鄧彪の死を正月の事としていますが、『後漢書・孝和孝殤帝紀』では「二月」です。『資治通鑑』の誤りです。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と資治通鑑』からです。
戊午(二十五日)、隴西で地震がありました。
この記述も『資治通鑑』は正月に書いていますが、『後漢書孝和孝殤帝紀』では「二月」です。『資治通鑑』の誤りです。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
三月戊子(二十五日)、和帝が詔を発しました「良才を選挙するのは、為政の元(政治の根本)である(選挙良才為政之本)。行能(品行と能力)の見極めは(科別行能)、必ず郷曲(郷里。地方)でされるべきである。しかし郡国が吏を挙げる時に簡択(選択。選別)を加えなかったため、先帝が明らかに各地に勅令し(故先帝明勅在所)(実際の)職によって試させてから充選(選抜任用)できることにした(『孝和孝殤帝紀』の注によると、章帝建初八年83年)十二月己未、章帝が詔書を発して士を挙げる際の四つの基準を設けました(辟士四科)。一つ目は徳行が高妙で、志節が清白なこと。二つ目は経に明るくて行いを修め、博士の職を任せられること。三つ目は疑案を判決できるほど法律に通暁していて、規定に基づいて審問でき、文(法律の知識)が御史(監察官)を任せられること。四つ目は剛毅多略で事に遭っても惑わず、明(英明さ)は姦を照らすに足り、勇は決断するに足り、才は三輔令を任せられることです。また全てに孝悌清公の品行が必要とされました。州刺史や二千石(郡国の長)が茂才(優秀な能力がある者)を挙げる時は、孝廉(品行が優れた者)とは異なり、必ず実際の職務を与えて能力を試させました。もしも職を任せられる力がなく、官事に習熟していなかったら、推挙した者が裁かれることになります。最後の部分を『孝和孝殤帝紀』の注は「有非其人不習曹事,正挙者故不以実法」と書いていますが、『太平御覧治道部九(巻六百二十八)』では「有非其人不習官事,正挙者故挙不実為法罪之」としています。ここでは『太平御覧』を参考にしました)。但し、徳行が特に異り、職を経験する必要がない者は、別に署名して報告させた(別署状上)
ところが宣布してから前後九年経つのに(実際は十年経っています)、二千石は未だ命を守らず(曾不承奉)、勝手に自分の好みに従い(恣心従好)、司隷や刺史もそれを糾察することがない。今、新たに赦令を蒙ったので、改めて申勅する(勅令を明確にする)。今後、(命を)犯す者がいたら、その罪を明らかにせよ(顕明其罰)。官位に居る者が選挙を憂いとせず(重視せず)、督察する者が発覚(摘発)を負(責任)としないのは、州郡だけのことではない。そのため多くの官が相応しい人材を得ていない(是以庶官多非其人)。下民が姦邪の傷を被っているのは、法が行われていないことが原因である。」
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
庚寅(二十七日)、使者を分けて各地に派遣し、貧民を巡察させました。流散した民の実数を挙げさせ、三十余郡で倉を開いて賑稟(救済)しました(挙実流開倉賑稟三十余郡)
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月壬子(二十日)、阜陵殤王の兄劉魴を阜陵王に封じて王家を継がせました。
阜陵殤王は劉沖(または「劉种」)で、質王劉延光武帝の子)の子です。和帝永元三年91年)に死んで後嗣がいなかったため家系が途絶えていました。
 
[十一] 『後漢書孝和孝殤帝紀からです。
六月丁酉、三つの郡国で雹が降りました。
『孝和孝殤帝紀』の注によると、雹は雁子(雁の卵)ほどの大きさがありました。
 
[十二] 『後漢書・孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
九月辛酉(初一日)、広宗王劉万歳(殤王。正月に即位したばかりです)が死にました。子がいなかったため国が除かれました。
 
[十三] 『後漢書・孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
竇憲は於除鞬を北単于に立ててから、於除鞬を助けて北庭に還らせようとしました。
しかし竇憲の誅殺によって計画が中止されました。
そのため於除鞬は東漢から離反して自ら北に帰りました。
 
和帝は詔を発して将兵長史王輔を派遣し、千余騎を率いて中郎将・任尚と共に追討させました。
東漢軍は於除鞬を斬ってその部衆を滅ぼしました。
 
[十四] 『後漢書・孝和孝殤帝紀』からです。
壬午(二十二日)、郡県に命じて民に蔬食(粗食。草木の実等)を蓄積するように勧めさせました。五穀の補助にするためです
また、官府に陂池(池)があったら民が采取(採取捕獲)できるようにさせ、二年間は假税(土地借りた者が払う税)を取らないことにしました(勿收假税二歳)
 
 
 
次回に続きます。