東漢時代132 和帝(十一) 梁王劉暢 93年(2)

今回で東漢和帝永元五年が終わります。
 
[十五] 『資治通鑑』からです。
耿夔が北匈奴を破ってから(和帝永元三年91年)鮮卑が機に乗じて転移し、北匈奴の故地を占拠しました。
資治通鑑』胡三省注は「鮮卑の)拓拔氏が北荒から南に遷ったのはこの時のはずだ」と解説しています。
 
匈奴の余種で留まっていた者がまだ十余万落「落」は通常「村落・部落」の意味ですが、ここでは数が多いので「戸」の意味かもしれませんいましたが、皆が自ら鮮卑と号しました(但しこの後も北匈奴はしばしば登場します。完全に消滅したわけではないようです)
鮮卑はここからしだいに強盛になります。
 
[十六] 『後漢書孝和孝殤帝紀と『資治通鑑』からです。
冬十月辛未(中華書局『白話資治通鑑』は「辛未」を恐らく誤りとしています)、太尉尹睦が死にました。
『孝和孝殤帝紀』の注によると、尹睦の字は伯師で、鞏の人です。
 
十一月乙丑(初六日)、太僕張酺を太尉に任命しました。
 
張酺が尚書張敏等と共に上奏しました「射声校尉曹褒は勝手に漢礼を制定し(章帝章和元年87年参照)、聖術(聖人の道)を破乱しました(擅制漢礼破乱聖術)。刑誅(刑罰。誅殺)を加えるべきです。」
上奏文は五回も提出されました。
和帝は張酺が学説を守るだけで時宜に応じた変化ができない(守学不通)と知っていたため、上奏を受理しませんでしたが、曹褒が制定した漢礼も行われなくなりました。
 
[十七] 『後漢書・孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
この年、武陵の郡兵が叛蛮(前年に叛した蛮人)を破って降しました。
 
[十八] 『資治通鑑』からです。
梁王劉暢(明帝の子)が従官卞忌と共に祭祀を行って福を求めました。
資治通鑑』胡三省注によると、卞氏西周の曹叔振鐸の後代です。曹の支子が卞に封じられて卞氏の族になりました。魯に卞荘子がおり、楚に卞和がいました。
 
卞忌等が劉暢におもねって言いました「神は王が天子になるはずだと言っています。」
劉暢は卞忌等に応答しました(卞忌等の言葉を否定せず、会話を続けました。原文「與相応答」)
この事が有司(官員)によって上奏されました。有司は劉暢を招いて詔獄(皇帝が管理する獄)に送ることを請います。
しかし和帝は同意せず、成武と単父の二県を削っただけでした。
資治通鑑』胡三省注によると、成武と単父の二県は元々、山陽に属し、後に済陰に属しましたが、章帝によって梁国に加えられました。
 
劉暢は慚愧して懼れを抱きました。そこで深く自責する上書を行いました「臣は天性の狂愚で防禁(禁ずるべきこと)を知らず、自ら死罪に陥ったので、顕誅公開処刑に伏すべきです(『資治通鑑』の原文は「分伏顕誅」ですが、「分」の意味が分かりません。『後漢書孝明八王列伝(巻五十)』には「当即時伏顕誅(すぐ顕誅に伏すべきだ)」と書かれています)。しかし陛下の聖徳によって、法に背いて判決を曲げ(枉法曲平)、妄りに臣を赦貸(寛恕)したので(横赦貸臣)、臣のために(陛下が)汚されています(為臣受汙)。臣は大貸(大きな寛恕)を再び得ることはできないと知っているので、自らこの身を束ねて妻子を約すこと(自分と妻子の行動を律すること)を誓い、出入りして(家の中でも外でも)縄墨(法度)を失うようなことは二度とせず(不敢復出入失縄墨)、横費(浪費)することも二度とありません(不敢復有所横費)。租の収入に余りがあるので、睢陽、穀熟、虞、蒙、寧陵の五県を割いて自分の食邑とし、その他に食邑としている四県を返上することを請います(『資治通鑑』胡三省注によると、四県は下邑、尉氏、薄、郾を指します)。臣暢の小妻(正妻以外の妻)は三十七人いますが、子がない者は本家に還らせることを願います。自ら謹敕(行動を正して慎重なこと)の奴婢二百人を選択し、その他の(朝廷から)授けられた虎賁、官騎および諸工技、鼓吹、倉頭、奴婢,兵弩、厩馬は全て本署に返上します(『資治通鑑』胡三省注によると、虎賁士は虎賁中郎将に属します。官騎は王家の騶騎(騎士)で、厩馬と共に太僕に属します。工技は尚方に、鼓吹は黄門に属します。倉頭と奴婢は永巷、御府、奚官等の令に属します。兵弩は考工令に属します。本署というのはそれぞれが属す官署を指します)。臣暢は骨肉近親の立場にいながら聖化を乱し、清流を汚しました。既に生活を得ましたが(命が助けられましたが)、誠に凶悪(の身)によって再び大宮に住み、大国を食し(大国を領有し)、官属を張り(配置し)、雑物(器物)を藏す(所蔵する)心も面目もありません(無心面目)。陛下が恩を加えて許可することを願います(加恩開許)。」
和帝は優詔(優遇する詔)によって却下しました。
 
[十九] 『後漢書・孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
護羌校尉貫友(貫が姓です)が訳使(通訳の使者)を送って諸羌を離間させました。財貨で誘って諸羌族の連合を解散させます。
その後、兵を送って塞から出撃させ、迷唐を大小楡谷で攻撃しました。八百余人を斬首したり捕虜にします。また、数万斛の麦も奪いました。
 
貫友は逢留大河(『資治通鑑』胡三省注によると、逢留は黄河上流の別名です。二楡谷の北に位置します)を挟んで城塢を築き、大航(大船)を造ったり河橋を架けました。大軍が河を渡って迷唐を撃てるようにします。
迷唐は部落を率いて遠くに遷り、賜支河曲の周辺に到りました。
 
[二十] 『資治通鑑』からです。
単于屯屠何(休蘭尸逐侯鞮単于が死に、単于(伊屠於閭鞮単于。章帝元和二年85年参照)の弟に当たる安国が立ちました。
安国は左賢王でしたが、称誉(称賛名誉)がありませんでした。
安国が単于になってから、単于僮尸逐侯鞮単于の子に当たる右谷蠡王師子が序列に従って左賢王になりました。通常は左賢王が次の単于になります。
師子はかねてから勇猛聡明で知謀が多く(勇黠多知)、前単于宣と屯屠何に気決(果敢な性格、気概)を愛されていました。そのため、前単于はしばしば師子に命じて、兵を率いて塞外に出撃させました。北庭北匈奴を襲撃して還った師子は前単于から賞賜を授かり、東漢の天子からも特別な待遇を与えられました。
 
匈奴の国中の人は全て師子を敬っており、安国に帰心しませんでした。
そこで安国は師子を殺そうとしました。
南匈奴に降ったばかりの北匈奴(諸新降胡)はかつて塞外で頻繁に師子の駆掠(駆逐略奪)を受けていたため、多くが怨みを抱いていました。
安国は投降した者に計を託し、共に謀議するようになります。
 
師子は安国の陰謀を知り、別れて五原界に移住しました。龍庭(『資治通鑑』胡三省注によると、匈奴の龍庭は本来、塞外にありましたが、南単于が塞内に居住したため、単于が住む場所を龍庭と呼ぶようになりました)の会議も常に病と称して参加しなくなります。
これを知った度遼将軍皇甫稜も師子を擁護して龍庭に行かせませんでした。
単于・安国の懐憤(心中の憤慨)がますます大きくなります。
 
後漢書孝和孝殤帝紀は本年の最後に「南単于安国が叛し、骨都侯喜がこれを斬った」と書いていますが、安国が殺されるのは翌年のことです(再述します)
 
 
 
次回に続きます。