東漢時代133 和帝(十二) 南匈奴の混乱 94年(1)

今回は東漢和帝永元六年です。二回に分けます。
 
東漢和帝永元六年
甲午 94
 
[] 『資治通鑑』からです。
春正月、度遼将軍皇甫稜を罷免して執金吾朱徽を度遼将軍代行(行度遼将軍)にしました。
 
当時、単于(安国)と中郎将(『資治通鑑』胡三省注によると、使匈奴中郎将です)杜崇が不和だったため、単于が杜崇を訴える上書をしました。
しかし杜崇は西河太守に示唆して単于の上書を断たせました(『資治通鑑』胡三省注から解説します。単于は西河郡の美稷に住んでいたため、杜崇は西河太守に命じて上書を妨害させました)単于は自分の意見を述べる方法がなくなります。
 
杜崇がこの機に朱徽と共に上書しました「南単于安国は故胡(古くから使える南匈奴人)を疎遠にして、新降(最近投降した北匈奴人)を親近しており、左賢王師子および左台且渠劉利等を殺そうと欲しています。また、右部の降者が共に安国を迫脅(脅迫)して、兵を起こして背畔(背反)することを謀っています。これらの動きに対して、西河、上郡、安定が儆備(警戒防備)することを請います。」
和帝はこの内容を公卿に下して議論させました。
公卿は皆、こう言いました「蛮夷は反覆しており、測知(予測)が困難ですが、大兵(大軍)を聚会(集結)させれば、間違いなく敢えて行動しなくなります(必未敢動揺)。今は方略がある使者を派遣して単于庭に向かわせ、杜崇、朱徽および西河太守と幷力(協力)してその動静を観るべきです。もし他の変(異変。変化)がなかったら、杜崇等に命じて安国の傍で左右の大臣を集めさせ、その部衆の中で横暴かつ辺害(辺境の害)を為した者を譴責し、共に評議して罪がある者を誅殺することができます(共平罪誅)。もし命に従わなくても、権時臨機応変。臨時)の方略を為させ、事が終息してから(事畢之後)裁量して賞賜を行えば(裁行賞賜)(国威を)百蛮に示すに足ります。」
和帝はこの意見に従いました。
朱徽と杜崇が兵を動員して単于庭に向かいます。
 
安国は夜に漢軍が到ったと聞き、大いに驚いて帳(廬帳。単于の住居)を棄てて去りました。しかしこの機に兵を挙げて師子を誅殺しようとします。
師子は事前にそれを知り、全ての廬落を率いて曼柏城に入りました。『資治通鑑』胡三省注によると、曼柏県は五原郡に属します。
 
安国が城下に到りましたが、師子が門を閉ざしたため、中に入れません。
朱徽が官吏を派遣して安国を諭し、和解させようとしましたが、安国は聴きませんでした。
曼柏城が落ちないため、安国は兵を率いて五原に駐屯します。
 
杜崇と朱徽が諸郡の騎兵を動員して急速に追撃しました。
安国の衆は大いに恐れ、安国の舅(母の兄弟)骨都侯喜為等が皆殺しにされることを憂慮して安国を格殺(撃殺)します。
こうして匈奴は師子を単于に立てました。これを亭獨尸逐侯鞮単于といいます。
 
後漢書孝和孝殤帝紀では前年に安国が殺されており、骨都侯の名を「喜」としています(『資治通鑑』では「喜為」です)
資治通鑑』胡三省注は『孝和孝殤帝紀』が誤りと判断しています。『資治通鑑』は『後漢書南匈奴列伝(巻八十九)』に従っています。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀からです。
永昌徼外(塞外)の夷が使訳(通訳の使者)を送って犀牛()や大象を献上しました。
 
[] 『後漢書・孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
己卯(二十一日)、司徒丁鴻が死にました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
二月乙未(初八日)、謁者を分けて巡行させ、三河、兗、冀、青州の貧民を稟貸(救済。食糧を貸し与えることです)しました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
許侯(または「許陽侯」)馬光が自殺しました。
 
馬光は馬援の子です。『後漢書馬援列伝(巻二十四)』によると、竇憲が誅殺された時、馬光も竇憲と関係が厚かったため連座しました。後に刑を免じられて封国に就きましたが、竇憲の奴僕が馬光を誣告し、竇憲と叛逆を謀っていたと訴えたため、馬光は自殺しました。
『馬援列伝』の注によると、奴僕の名は玉当といい、馬光に怨みを抱いていました。竇氏が誅滅されて玉当も逮捕されると、玉当は馬光と竇憲に悪謀があったと訴えました。馬光は弁明できないと判断して自殺します。
馬光の死後、竇憲の別の奴僕郭扈が自ら馬光の無罪を証明しました。馬光の子馬朗が上書して馬光を旧塋(先祖代々の墓地)に埋葬することを求めたため、和帝は詔を発して許可しました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
丁未(二十日)、司空劉方を司徒に、太常張奮を司空に任命しました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
三月庚寅、和帝が詔を発し、流民が通った郡国では全て実情に合わせて食糧を支給させました(皆実稟之)。また、流民で販売(商売)する者は租税を出す必要がなく(『孝和孝殤帝紀』の注が解説しています。漢は周法に則っており、商賈(商人)納税の義務がありました。しかし流人が商売した場合は税を免じることにしました)、賎に就いて(恐らく農民に戻るという意味です)故郷に帰ろうとする者には(欲就賎還帰者)、一年の田租と更賦(兵役の代わりに払う税)を免除しました(復一歳田租更賦)
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
丙寅、和帝が詔を発しました「朕は眇末(微小)によって鴻烈(大業)を承奉(継承)したので、陰陽が不和となり、水旱が度を違え(通常と異なり)、済河の域(『孝和孝殤帝紀』の注によると、東南は済水、西北は黄河に挟まれた地です。兗州に属します)が凶饉流亡している。しかしまだ匡救の策とするための忠言至謀を獲ていない。寝ても覚めても永く嘆息し(寤寐永歎)、心を労して痛苦している(用思孔疚)。上では官人を得られず(官人の人選が正しくなく)、下では黎民が不安でいることを考慮する(惟官人不得於上,黎民不安于下)。有司(官員)は寛和を念じず、苛刻を為すことを競い、急がないことを追及して(覆案不急)民事を妨げている。これは全く上は天心に当たることではなく、下は元元(民衆)を救うことにならない(甚非所以上当天心下済元元也)。忠良の士を得て朕の不逮(不足)を輔佐させることを思う。よって三公、中二千石、二千石、内郡の守相に命じ、賢良方正かつ直言極諫ができる士を各一人挙げさせる。岩穴を照らし(昭岩穴)、幽隠を開いて(披幽隠)公車(官署名)を訪ねさせよ。朕がことごとく(意見を)聴こう。」
こうして和帝が自ら策問(試験)に臨み、郎吏を選んで任命しました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
夏四月、蜀郡徼外(塞外)の羌が種人(族人)を統率し、使者を送って内附しました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と資治通鑑』からです。
五月、城陽劉淑(懐王。章帝の子、和帝の弟)が死にました。子がいなかったため国が除かれました。
 
[十一] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
六月己酉、始めて「伏閉尽日」を命じました。
『孝和孝殤帝紀』の注が解説しています。「伏日」は万鬼が行動するので、終日門戸を閉じて它事(他事。余計な事)を行わないように命じました。
 
「伏日」は通常、「三伏の期間」を指しますが、ここでは「初伏の初日」を意味すると思われます。
夏至から数えて三回目の庚日を起点に、そこから十日間を「初伏(頭伏)」、立秋後の最初の庚日から十日間を「末伏三伏」、「初伏」の最後の日と「末伏」の最初の日の間を「中伏(二伏)」といい、これを合わせて「三伏」といいます。
「初伏」と「末伏」はそれぞれ十日間と決まっていますが、「中伏」は暦の関係で十日間か二十日間になります。合計三十日か四十日続く三伏の中で、「中伏」が最も暑くなります。
 
 
 
次回に続きます。