東漢時代134 和帝(十三) 西域帰順 94年(2)
今回で東漢和帝永元六年が終わります。
秋七月、京師を旱害が襲いました。
和帝が中都官(京師の諸官)に詔を発しました。徒(囚人)からそれぞれ半刑を除かせ(徒各除半刑)、残された刑期が五カ月以下の者は全て免じて帰らせました(原文「讁其未竟五月已下皆免遣」。誤訳かもしれません)。
丁巳、和帝が洛陽の寺(官舍)を訪ねて囚徒を調査記録し、冤獄を挙げさせました(録囚徒挙冤獄)。
和帝が皇宮に還る前に澍雨(大雨。旱害から救う時雨)が降りました。
班超が亀茲、鄯善等八国の兵合計七万人および吏士・賈客(商人)千四百人を動員して焉耆を討ちました。
漢兵が尉犂界に到ってから、使者を送って焉耆、尉犂、危須を説得するためにこう伝えました「都護が来たのは三国を鎮撫したいからだ。過ちを改めて善に向かうことを欲するのなら、大人(指導者)を派遣して迎えに来るべきだ。そうすれば王侯以下を賞賜し、事が終わったらすぐに還る。今、王に綵(絹織物)五百匹を下賜する。」
焉耆王・広は左将・北鞬支を送り、牛酒を準備して班超を迎えさせました。
ある者がこの機に乗じて鞬支を殺すように勧めましたが、班超はこう言いました「汝の考えが及ぶことではない(非汝所及)。この者は権(権勢)が王より重い。今、国に入る前に殺してしまったら、(焉耆王を)疑わせることになる(遂令自疑)。(焉耆王が)備えを設けて険阻な地を守ったら、どうして城下に到ることができるか。」
班超は鞬支に賞賜を与えて還らせました。
焉耆王・広は大人と共に尉犂で班超を出迎え、珍物を献上しました。
焉耆国には葦橋の険がありました。焉耆王・広は漢軍を国に入らせないため、橋を断ちます。
班超は道を変えて、水かさが帯より高い場所で川を渡りました(原文「更従它道厲度」。『班梁列伝』の注によると、「厲」は帯より深い水です。膝より浅い水を「揭」といいます)。
七月晦、班超が焉耆に到りました。城から二十里離れた大沢の中に営を構えます。
焉耆王・広は不意を突かれて大いに恐れ、国の人を全て山中に駆けさせて守りを固めました。
焉耆の左侯(『資治通鑑』胡三省注によると、焉耆国には左・右将と左・右侯がいました。尚、『班梁列伝』は「左侯」ではなく「左候」としています)・元孟は以前、京師で人質になっていたため、秘かに使者を送って班超に状況を報告しました。しかし班超はすぐに使者を斬って信用していない姿を示しました。
その後、班超は諸国の王を集める日を決めて、重い賞賜を加えると宣言しました。
焉耆王・広、尉犂王・汎(または「沈」)および北鞬支等三十人が共に班超を訪ねます。
但し、国相・腹久等十七人は誅殺を懼れたため、皆、逃亡して海(どこの海、湖かはわかりません)に入りました。危須王も参加しません。
諸王の席が定まってから、班超が怒って焉耆王・広を詰問し、「危須王はなぜ到らない!腹久等は何が原因で逃亡した(所縁逃亡)!」と言いました。吏士に叱咤して広、汎等を捕えさせます。広等は陳睦故城(かつて西域都護・陳睦が駐留していた城)で斬られ、首が京師に送られました。
班超は更に兵を放って鈔掠(略奪)し、五千余級を斬首して生口(捕虜)一万五千人、馬畜牛羊三十余万頭を獲ました。焉耆左侯・元孟を焉耆王に立てます。
班超は焉耆に半年留まって慰撫しました。
かつて光武帝が河北を統一したばかりの時、安集掾を置いて民を安定させました。
本文に戻ります。
降胡が互いに驚動し、十五部二十余万人が師子に反しました。
前単于・屯屠何の子である薁鞮日逐王(または「薁鞬日逐王」。前年殺された安国の従弟の子に当たります)・逢侯を脅して単于に立て、吏民を殺略し、郵亭や廬帳を焼き、車重(輜重車)を率いて朔方に向かい、幕北(沙漠の北)に移ろうとします。
九月癸丑(中華書局『白話資治通鑑』は「癸丑」を恐らく誤りとしています)、光禄勳・鄧鴻が車騎将軍の代行となり(行車騎将軍事)、越騎校尉・馮柱、行度遼将軍・朱徽、使匈奴中郎将・杜崇と共に左右羽林と北軍五校士および郡国の迹射(射士)、縁辺の兵を率いて逢侯を討ちました。護烏桓校尉・任尚も烏桓・鮮卑の兵を指揮し、合計四万人が討伐に参加します。
逢侯が一万余騎を率いて牧師城を包囲攻撃しました。
冬十一月、鄧鴻等が美稷に到着したため、逢侯は包囲を解いて去り、満夷谷に向かいました。
南単于が子を派遣して一万騎を指揮させました。単于の子は杜崇が指揮する四千騎も率いて出撃し、鄧鴻等と共に逢侯を追撃して大城塞(『資治通鑑』胡三省注によると、大城県は西河郡または朔方郡に属します)に到り、四千余級を斬首しました。
馮柱も兵を送って追撃し、逢侯軍を破りました。
前後合わせて一万七千余級を斬首します。
逢侯は衆を率いて塞を出ました。
漢兵は追撃できず、引き返しました。
大司農・陳寵を廷尉に任命しました。
陳寵は性格が仁矜(仁愛)で、しばしば疑獄を議しましたが(しばしば困難な事件を裁きましたが)いつも経典に基き、務めて寬恕に従いました。
ここから刻敝の風(苛酷な気風)が少し衰えました。
和帝が尚書令・江夏の人・黄香を東郡太守に任命しましたが、黄香は辞退してこう言いました「郡を主管して政治に参与するのは(典郡従政)、(臣の)才では相応しくありません。(尚書に)留まって宂官(散官。特定の職務がない官)に備わり、督責(督察)の小職を賜って、宮台(『資治通鑑』胡三省注によると、「宮」は宮中、「台」は尚書台です)の煩事を任せられることを乞います(乞留備宂官,賜以督責小職,任之宮台煩事)。」
黄香も事務に対して祗勤(慎重勤勉)で、公の事を家の事のように憂いました(憂公如家)。
武陵の漊中蛮が叛しましたが、郡兵が討伐して平定しました。
次回に続きます。