東漢時代135 和帝(十四) 楽成王劉党 95年

今回は東漢和帝永元七年です。
 
東漢和帝永元七年
乙未 95
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と資治通鑑』からです。
春正月、行車騎将軍事鄧鴻等の軍が帰還しました。
馮柱は虎牙営を率いて五原に駐留します。
 
鄧鴻は逗留して利を失った罪に坐し、獄に下されて死にました。塞を出た逢侯を追撃しなかったことが罪とされたのだと思われます。
 
後に和帝は行度遼将軍朱徽と使匈奴中郎将杜崇が匈奴との和を失い、上書を禁じたために匈奴の離反を招いたと知りました。
二人共呼び戻されて獄に下され、死亡しました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と資治通鑑』からです。
夏四月辛亥朔、日食がありました。
 
和帝が公卿を引見して政治の得失について問いました。将、大夫、御史、謁者、博士、議郎、郎官を廷中に集合させてそれぞれ封事(密封した上書)を提出させます。
 
その後、和帝が詔を発しました「元首が不明なため、化流(教化。徳教の流布)に良がなく、政が民に失われ(民が善政を得られず)、讁(咎。譴責)が天に現れた(日食を指します)。深く庶事(民衆の諸事)を思うに、五教(父義母慈兄友弟恭子孝)は寛にあるので(五教の根本は寛容にあるので)、旧典では孝廉の挙によってその人(相応しい人材)を求めた。有司(官員)は郎官から寛博で謀才があり典城(訴訟)を任せられる者三十人を詳しく選べ。」
 
詔の後、選出された郎を全て朝廷から出して長(県長国相)に任命しました。
『孝和孝殤帝紀』の注によると、県が侯邑(諸侯の邑)になったら、令長は侯相となり、秩は令長の本秩と同等でした。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
五月辛卯、千乗国を楽安国に改めました(和帝永元五年93年参照)
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
六月丙寅、沛王劉定が死にました。
劉定は諡号を釐王といい、父は献王劉輔、祖父は光武帝です。『後漢書光武十王列伝(巻四十二)』によると、劉定の死後、子の節王劉正が継ぎました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と資治通鑑』からです。
秋七月乙巳(二十六日)、易陽の地が裂けました。
 
[] 『後漢書・孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
九月癸卯(二十五日)、京師で地震がありました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
楽成王劉党(明帝の子)が人を殺した罪に坐し(坐賊殺人)、東光との二県を削られました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、東光県は勃海郡に属し、県は鉅鹿郡に属していましたが、章帝が楽成国に編入させました。
後漢書孝明八王列伝(巻五十)』と『資治通鑑』胡三省注によると、旧制では、宮人(皇宮の宮女)後宮を出て人に嫁ぐ時、諸国(諸侯王の国)に行ってはならないことになっていました。
当時、元掖庭後宮の技人に哀置(哀が氏、置が名です)という者がおり、男子章初に嫁いで妻になりました。『孝明八王列伝』の注によると、官職がないので「男子」と称しています。
ところが劉党が哀置を招いて王宮に入れ、姦通しました。
それを知った章初は上書して朝廷に訴えようとします。
劉党は恐懼して秘かに哀置の姉(『孝明八王列伝』では「焦」ですが、『資治通鑑』胡三省注では「昭」です)に賄賂を贈り、章初を殺させました。しかも事が発覚してから、劉党は内侍三人を絞殺して口を封じました。
また、劉党は故中山簡王の傅婢(侍婢)李羽生を小妻(妾)にしました。
これらの事があったため、本年、二県を削られました。
 
 
 
次回に続きます。