東漢時代136 和帝(十五) 蝗害 96年
今回は東漢和帝永元八年です。
東漢和帝永元八年
丙申 96年
春二月己丑、和帝が貴人・陰氏を皇后に立てました。
天下の男子一人当たりに二級を、三老・孝悌・力田に三級を、民で名数(戸籍)がない者および流民で名乗り出て戸籍を欲した者(民無名数及流民欲占者)には一人当たり一級を下賜しました。
また、鰥寡(配偶者を失った男女)・孤独(孤児や身寄りがない老人)・篤𤸇(重病の者)・貧しくて自存できない者には一人当たり粟五斛を与えました。
夏四月癸亥、楽成王・劉党(靖王。前年参照)が死にました。
子の哀王・劉崇が立ちましたが、暫くして死に、子がいなかったため国が除かれました。
翌年、劉党の子・劉巡が改めて封王されます。
五月、河内と陳留で蝗害がありました。
死罪以下、司寇(辺境で労役する刑)におよぶ罪人と亡命者(逃亡している者)はそれぞれ差をつけて贖罪させました。
九月、京師で蝗害がありました。
吏民で議論した者(言事者)は多くが蝗害の責任を有司(官員)に帰しました。
和帝が詔を発しました「蝗蟲の異は通常、虚生するものではない(理由なく生まれるものではない。原文「殆不虚生」。『孝和孝殤帝紀』の注によると、「孟夏(四月)に春令を行ったら蝗蟲が災を為す」「利を貪って人を傷つけたら蝗蟲が稼(作物)を損なう」といわれていました)。万方に罪があったら、予一人に責任がある(万方有罪在予一人)。しかし意見を言う者は(言事者)専ら下を咎めており、わしを助けることにはならない(専咎自下非助我者也)。朕は寝ても覚めても痛苦し、憂患の発端を止めることを思う(朕寤寐恫矜,思弭憂釁)。昔、楚厳(楚荘王。明帝の諱・荘を避けて「厳王」といいます)は災がないのに懼れ(楚荘王は天地に異変がなかったのに、逆に「天が予を忘れたのではないか」と言って自分を戒めました。明帝永平三年・60年参照)、成王は郊に出て風が逆になった(西周成王の時代、成王が周公を疑ったため、天が大風を吹かせて穀物や木を全て倒しました。後に成王が周公の忠心を知り、郊外で天を祭って謝罪すると、天が反風(逆風)を吹かせて穀物や木が元に戻りました。章帝建初五年・80年参照)。(百官は)何によって朕の不逮(不足)を匡し(正し)、災変を塞ぐのだ。百僚師尹は勉めてその職を修め、刺史・二千石は刑辟(刑法)を明らかにし(詳刑辟)、冤虐を理し(冤罪を治めて正し)、鰥寡(配偶者を失った男女。身寄りがない者)を憐れみ(恤鰥寡)、孤弱(孤児や弱者)を憐憫し(矜孤弱)、災を招いて蝗害を起こした咎を思念せよ(思惟致災興蝗之咎)。」
庚子、再び広陽郡を置きました。
冬十月乙丑(二十三日)、北海王・劉威が敬王の子ではないことを指摘され、しかも誹謗の罪に坐したため、自殺しました。
十二月辛亥(初十日)、陳王・劉羨(敬王)が死にました。
丁巳(十六日)、南宮宣室殿で火災がありました。
護羌校尉・貫友が死んだため、代わりに漢陽太守・史充を護羌校尉に任命しました。
史充は任に就くと湟中の羌・胡を動員し、塞を出て迷唐を撃ちました。
しかし迷唐が迎撃して史充の兵を敗り、数百人を殺します。
史充は罪に坐して呼び戻され、代郡太守・呉祉が代わりました。
次回に続きます。