東漢時代138 和帝(十七) 大秦国 97年(2)
今回で東漢和帝永元九年が終わります。
九月庚申(二十四日)、司徒・劉方が策免(策書による罷免)されて自殺しました。
樊調を抜擢して羽林左監にしました。
九真に流刑になっていた梁竦の妻子も呼び戻し、梁竦の子・梁棠を楽平侯に、梁棠の弟・梁雍を乗氏侯に、梁雍の弟・梁翟を単父侯に封じました。皆、位が特進になり、賞賜は巨万を数え、寵遇が当世に輝きます。梁氏はここから強盛になりました。
梁氏の冤罪が晴らされたので、清河王・劉慶も母・宋貴人(章帝建初七年・82年参照)の冢(墓)を祀ることを請いました
和帝はこれに同意し、太官に詔を発して四時(四季)に祭具を提供させました。
劉慶が涙を流して言いました「生きている間は供養を獲られませんでしたが、死んでからついに祭祀を奉じることができました。私願(心願)を満足できました(生雖不獲供養,終得奉祭祀,私願足矣)。」
劉慶は祠堂の建立を請いたいと思いましたが、恭懐梁后と同格にしようとしていると嫌疑されることを恐れたため、敢えて口に出せず、いつも左右の者を向いて涙を流し、終生の遺憾(没歯之恨)としました。
後に上書してこう言いました「外祖母(母側の祖母。宋貴人の母)の王(王氏。名は不明です)は年老なので、雒陽を訪れて療疾(治療)することを乞います。」
和帝はこれをきっかけに詔を発して宋氏の親族を全て京師に戻らせ(宋氏は章帝建初七年・82年に故郡に帰されました)、劉慶の舅(母の兄弟)に当たる宋衍、宋俊、宋蓋、宋暹等を全て郎に任命しました。
十一月癸卯(初八日)、光禄勳・河南の人・呂蓋を司徒に任命しました。
十二月丙寅(初一日)、司空・張奮を罷免しました。
壬申(初七日)、太僕・韓稜を司空に任命しました。
己丑(二十四日)、再び若盧獄の官を置きました。
全て前代の人が至ったことがない地で、甘英は訪れた地の風土を記録し、珍怪を伝えました。
甘英は安息西界に到って大海(西海)に臨みました。海を渡ろうとしましたが、船人が甘英に「海水が広大なので、往来する者は善風(順風)に逢っても三月かけてやっと渡ることができます。もし遅風に遇ったら、二歳(二年)かかることもあります。だから海に入るには、人々は皆、三歳(三年)の糧を携行します。海上では容易に人々を思土恋慕させ(人々に故郷を思わせ)、しばしば死亡する者もいます」と言ったため、甘英はあきらめました。
條支は西方の遠国です。皮山西南を出てから烏秅を経由し、懸度(地名)を越えて罽賓を通り、六十余日後に烏弋山離国に到着します。そこから更に西南に向かい、馬で百余日進むと條支に到ります。
條支は西海に臨んでおり、海が婉曲して南・東・北の三面を囲んでいたため、西北の陸路だけが通じていました。
胡三省注は「條支から北に転じて更に東に向かい、馬で六十余日進むと安息に到る(自條支転北而東,馬行六十余日至安息)」とも書いていますが、「條支の南・東・北の三面が海に面している(條支臨西海,海水曲環其南及東北三面路絶)」という記述と合いません。
少し解説します。
甘英が目指した「大秦国」はローマ帝国です。
「條支国」は現在のシリアまたはイラクあたりにあった国のようですが、はっきりしません。
「安息国」は現在のイランあたりにあったパルティア国を指します。
次回に続きます。