東漢時代140 和帝(十九) 迷唐 100年

今回は東漢和帝永元十二年です。
 
東漢和帝永元十二年
庚子 100
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
春二月、旄牛徼外(界外)の白狼、薄夷が種人(族人)を率いて内属しました。
『孝和孝殤帝紀』の注によると、旄牛県は蜀郡に属します。旄牛の産地で、毎年その尾を納めて節旄に使われました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
和帝が詔を発し、被災した諸郡の民に種糧穀物の種と食糧)を貸与させました。
また、下貧(貧困)、鰥寡(配偶者を失った男女)、孤独(孤児や身寄りがない老人)、自存できない者および郡国の流民が自由に陂池(池沢)に入って漁采(漁業採取)を行い、蔬食(質素な食事)を補うことを許可しました。

[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
三月丙申、和帝が詔を発しました「連年不作のため百姓が虚乏している(比年不登百姓虚匱)。京師は去冬(昨年の冬)に宿雪(積もった雪。冬を越える雪)がなく、今春は澍雨(時節に応じた雨)がなく、黎民(民衆)が流離して道路で困窮している。朕は心も頭も痛めているが救済の方法を知らない(痛心疾首靡知所済)。『恭しく天を仰ぐ。人々に何の罪があるのだ(原文「瞻仰昊天,何辜今人」。『孝和孝殤帝紀』の注によると、『詩経大雅』が元になっています。西周宣王が旱害に遭った時の詩です)。』三公は朕の腹心だが、天を承って民を安んじる策をまだ獲ていない。しばしば有司に詔し、務めて良吏を選ばせたが、今もまだ改められず、競って苛暴(苛酷な政事)を為し、小民を侵愁(侵害)することで虚名を求め、下吏に委任し、権勢を借りて姦邪を行っている(假埶行邪)。そのため令が下ると姦が生まれ、禁が至ると詐(詐術)が起きている。法を弄んで律を破壊し(巧法析律)、文を飾って辞を増やし(飾文増辞)、貨が言において行われ(話をすれば賄賂が行われ。原文「貨行於言」)、罪が手において成っているので(罪が官吏によって捏造されているので。原文「罪成乎手」)、朕は甚だこれを憂いる(朕甚病焉)。公卿が好悪(善悪)を明らかにすることを思わず、どうしてその咎罰を救うのだ(公卿不思助明好悪将何以救其咎罰)。咎罰が既に到ったら、また災を小民に及ぼすことになる。しかしもし上下が同心になったら、あるいは治癒できるかもしれない(若上下同心庶或有瘳)。よって、天下の男子一人当たりに二級の爵を、三老孝悌力田には三級を、民で名数(戸籍)がない者および流民で名乗り出て戸籍を欲する者(民無名数及流民欲占者)には一人当たりに一級を下賜し、鰥寡(配偶者を失った男女)孤独(孤児や身寄りがない老人)𤸇(重病の者)貧しくて自存できない者には一人当たり粟三斛を与える。」
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
壬子、博士員弟子で太学にいる者に一人当たり三匹の布を下賜しました。
『孝和孝殤帝紀』の注によると、西漢武帝が博士弟子を置き、太常が十八歳以上で儀状端正な者を選びました。昭帝が定員を百人とし、宣帝が倍増させ、更に元帝が千人に、成帝が三千人にしました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
夏四月、日南郡象林県の蛮夷が反しましたが、郡兵がこれ討伐して破りました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
戊辰(十六日)、秭帰で山崩れがありました。
資治通鑑』胡三省注によると、秭帰県は南郡に属し、かつては夔国でした。戦国時代の屈原がこの県の出身です。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
閏月、敦煌・張掖・五原の民で下貧(貧困)な者に穀物を与えて脤貸(救済)しました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
六月、舞陽で大水(洪水)がありました。
水災を被った特に貧しい者に一人当たり三斛の穀物を下賜しました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月辛亥朔、日食がありました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
九月戊午(初九日)、太尉張酺を罷免しました。
丙寅(十七日)、大司農張禹を太尉に任命しました。
 
[十一] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
冬十一月、西域の蒙奇、兜勒の二国が使者を派遣して内附しました。
東漢は二国の王に金印紫綬を下賜しました。
 
[十二] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と資治通鑑』からです。
焼当羌の豪迷唐が東漢に入朝してから(二年前)、残った種人(族人)は二千を満たさず、飢窘(飢餓困窮)して自立できなくなったため、金城に入って居住しました。
和帝は迷唐に種人(族人)を率いて大小楡谷に還らせました。
しかし当時は漢が河橋を造って(和帝永元五年93年)、兵を自由に往来できるようにしていたため(兵来無常)、迷唐は再び故地に住むことはできないと考え、種人(族人)が飢餓のため遠出できないという理由で辞退しました。
 
これに対して護羌校尉呉祉等が迷唐に多数の金帛を与えて穀物や家畜を買うように命じ(令糴穀市畜)、塞から出るように促しました。
金城に住む焼当羌の人々は逆に猜驚(猜疑と驚愕、恐れ)を抱くようになります。
 
この年、迷唐がまた叛しました。湟中の諸胡を脅かして指揮下に入れ、寇鈔(略奪)して塞外に去ります(脅将湟中諸胡寇鈔而去)
王信、耿譚、呉祉は罪を問われて京師に呼び戻されました(王信と耿譚は和帝永元十年98年参照)
 
 
 
次回に続きます。