東漢時代141 和帝(二十) 孝廉 101年

今回から紀元2世紀に入ります。
2世紀は東漢が衰退し、後期には日本でもおなじみの『三国志』の時代に入ります。
三国志』の時代はその後に続く東晋十六国南北朝時代という長い分裂時代の幕開けでもあります。
 
まずは東漢和帝永元十三年です。
 
東漢和帝永元十三年
辛丑 101
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
春正月丁丑、和帝が東観を訪ねて書林を参観し、篇籍(文献)を閲覧しました。
また、術芸(経芸。経学)の士を広く選んでその官を充たしました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
二月、任城王劉尚が死にました。
劉尚は東平王蒼の子です(章帝元和元年84年参照)
後漢書光武十王列伝(巻四十二)』によると劉尚の諡号は孝王です。子の貞王劉安が継ぎました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
丙午、張掖・居延・朔方・日南の貧民および孤寡(孤児や身寄りがない者)、羸弱(弱者)、自存できない者を賑貸(救済)しました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
秋八月、和帝が詔を発しました。象林の民で農桑業を失った者に種糧穀物の種や食料)を貸し与えて賑貸(救済)し、下貧(貧困)に穀食穀物を稟賜(下賜)しました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と資治通鑑』からです。
己亥(二十五日)、北宮の盛饌門閣(門の楼閣)で火災がありました。
資治通鑑』胡三省注によると、盛饌門閣は御厨門閣です。
「盛饌」は本来、豊富な食事という意味ですが、ここでは皇帝の食事を意味します。「御厨」は皇帝の食事を作る厨房です。
 
[] 『後漢書・孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
焼当羌の迷唐が賜支河曲に帰ってから、兵を率いて漢の辺塞に向かいました。
 
護羌校尉周鮪と金城太守侯霸および諸郡の兵や属国の羌胡、合わせて三万人が塞を出て允川に到ります。
資治通鑑』胡三省注によると、允川は賜支河曲から数十里離れており、大小楡谷の西に位置します。
 
侯霸が迷唐を撃破したため、種人(族人)が瓦解しました。
東漢は投降した六千余口を分けて漢陽、安定、隴西に移しました。
この後、迷唐は衰弱して遠く賜支河首(源流)を越え、発羌に頼って居住しました。
資治通鑑』胡三省注によると、発羌は羌の別種です。あるいはその後代が唐代の吐蕃になったともいいます。
 
迷唐は久しくして病死しました。
その子が東漢に投降しましたが、戸数は数十も満たしませんでした。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と資治通鑑』からです。
荊州で大雨が降って被害が出ました荊州雨水)
 
九月壬子、和帝が詔を発しました「荊州は連年節(限度。際限)がなく(比歳不節)、今も淫水(大雨洪水)が害を為し、その他の地で収穫があるとはいうものの、多くに行き届いていない(余雖頗登而多不均浹)。深く四民の農食の本を思うと、惨然懐矜(悲痛憐憫)する。よって天下に令を下し、今年は田租・芻稾(飼料)の半分を入れさせる。実情に合わせて免除すべき者がいたら前例の通りとする(有宜以実除者如故事)。貧民が借りた種食穀物の種や食糧)は全て收責(回収督促)してはならない。」
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
冬十一月、安息国が使者を送って師子(獅子)と條枝(條支。西方の国です)の大爵(駝鳥)を献上しました。
『孝和孝殤帝紀』の注によると、安息国は和犢城を都としており、洛陽から二万五千里離れていました(和帝永元九年・97年参照)
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と資治通鑑』からです。
丙辰(十四日)、和帝が詔を発しました「幽、并、涼州の多くは戸口が少なく(原文「戸口率少」。『資治通鑑』胡三省注によると、幽州の大郡には十万余戸がありましたが、玄菟は千五百二十四戸しかありませんでした。并州は大郡でも三万余戸で、小郡は二千も満たしません。涼州の大郡も三万戸を満たさず、敦煌は七百四十八戸だけでした)、辺役が衆劇(頻繁で負担が大きいこと)で、束脩(髪を束ねて身を修めていること)の良吏が仕に進む路が狭い。夷狄を慰撫して招くには、人材が最も需要である(撫接夷狄,以人為本)。よって人口十万以上の縁辺の郡に命じ、毎歳(毎年)、孝廉を一人挙げさせる。十万に満たない場所は二歳(二年)に一人挙げさせ、五万以下は三歳(三年)に一人挙げさせる。」
 
「孝廉」は孝順かつ清廉な人材です。西漢武帝が天下から孝廉を推挙させました武帝建元元年140年参照)
後漢書桓栄丁鴻列伝(巻三十七)』によると、以前は人口五六十万の大郡も二十万の小郡や蛮夷が住む地域も孝廉を二人を挙げていました。和帝はこれでは均一ではないと考え、公卿に会議させました。
そこで丁鴻と司空劉方が上書しました「人口に比例した義務(口率之科)というのは、階品(等級。秩序)があるべきです。蛮夷が錯雑(雑居)していたら、それを数にはできません(不得為数)。今から約二十万口の郡国は歳に孝廉一人を挙げさせ、四十万は二人、六十万は三人、八十万は四人、百万は五人に、百二十万は六人とするべきです。二十万に満たない場合は二歳(二年)に一人とし、十万に満たない場合は三歳に一人とします。」
和帝はこれに従いました。
この上書がいつされたかは明記されていませんが、劉方が司空を勤めたのは和帝永元四年92年)十月から永元六年94年)二月までなので、上書もこの間に行われたはずです。尚、丁鴻は永元六年94年)に死にました。
本年(永元十三年101年)、和帝は辺境の孝廉の数を増やしました。人口十万以上の郡は毎年一人、十万に満たない郡は二年に一人、五万以下は三年に一人にします。
 
[] 『後漢書・孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
鮮卑が右北平を侵して更に漁陽に侵入しましたが、漁陽太守が撃破しました。
 
[十一] 『後漢書・孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
戊辰(二十六日)、司徒呂蓋が老病によって致仕(隠退)しました。
 
[十二] 『後漢書・孝和孝殤帝紀』からです。
十二月丁丑、光禄勛魯恭が司徒になりました。
 
[十三] 『後漢書・孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
郡による税の徴収が不平等だったため、巫蛮許聖が怨恨して反しました。
資治通鑑』胡三省注によると、巫県は南郡に属します。「巫蛮」は巫県周辺の少数民族です。
 
辛卯、許聖が南郡を侵しました。
 
 
 
次回に続きます。