東漢時代141 和帝(二十) 孝廉 101年
今回から紀元2世紀に入ります。
まずは東漢和帝永元十三年です。
東漢和帝永元十三年
辛丑 101年
春正月丁丑、和帝が東観を訪ねて書林を参観し、篇籍(文献)を閲覧しました。
また、術芸(経芸。経学)の士を広く選んでその官を充たしました。
二月、任城王・劉尚が死にました。
丙午、張掖・居延・朔方・日南の貧民および孤寡(孤児や身寄りがない者)、羸弱(弱者)、自存できない者を賑貸(救済)しました。
己亥(二十五日)、北宮の盛饌門閣(門の楼閣)で火災がありました。
『資治通鑑』胡三省注によると、盛饌門閣は御厨門閣です。
「盛饌」は本来、豊富な食事という意味ですが、ここでは皇帝の食事を意味します。「御厨」は皇帝の食事を作る厨房です。
焼当羌の迷唐が賜支河曲に帰ってから、兵を率いて漢の辺塞に向かいました。
護羌校尉・周鮪と金城太守・侯霸および諸郡の兵や属国の羌・胡、合わせて三万人が塞を出て允川に到ります。
侯霸が迷唐を撃破したため、種人(族人)が瓦解しました。
東漢は投降した六千余口を分けて漢陽、安定、隴西に移しました。
この後、迷唐は衰弱して遠く賜支河首(源流)を越え、発羌に頼って居住しました。
迷唐は久しくして病死しました。
その子が東漢に投降しましたが、戸数は数十も満たしませんでした。
九月壬子、和帝が詔を発しました「荊州は連年節(限度。際限)がなく(比歳不節)、今も淫水(大雨洪水)が害を為し、その他の地で収穫があるとはいうものの、多くに行き届いていない(余雖頗登而多不均浹)。深く四民の農食の本を思うと、惨然懐矜(悲痛憐憫)する。よって天下に令を下し、今年は田租・芻稾(飼料)の半分を入れさせる。実情に合わせて免除すべき者がいたら前例の通りとする(有宜以実除者如故事)。貧民が借りた種食(穀物の種や食糧)は全て收責(回収督促)してはならない。」
冬十一月、安息国が使者を送って師子(獅子)と條枝(條支。西方の国です)の大爵(駝鳥)を献上しました。
丙辰(十四日)、和帝が詔を発しました「幽、并、涼州の多くは戸口が少なく(原文「戸口率少」。『資治通鑑』胡三省注によると、幽州の大郡には十万余戸がありましたが、玄菟は千五百二十四戸しかありませんでした。并州は大郡でも三万余戸で、小郡は二千も満たしません。涼州の大郡も三万戸を満たさず、敦煌は七百四十八戸だけでした)、辺役が衆劇(頻繁で負担が大きいこと)で、束脩(髪を束ねて身を修めていること)の良吏が仕に進む路が狭い。夷狄を慰撫して招くには、人材が最も需要である(撫接夷狄,以人為本)。よって人口十万以上の縁辺の郡に命じ、毎歳(毎年)、孝廉を一人挙げさせる。十万に満たない場所は二歳(二年)に一人挙げさせ、五万以下は三歳(三年)に一人挙げさせる。」
そこで丁鴻と司空・劉方が上書しました「人口に比例した義務(口率之科)というのは、階品(等級。秩序)があるべきです。蛮夷が錯雑(雑居)していたら、それを数にはできません(不得為数)。今から約二十万口の郡国は歳に孝廉一人を挙げさせ、四十万は二人、六十万は三人、八十万は四人、百万は五人に、百二十万は六人とするべきです。二十万に満たない場合は二歳(二年)に一人とし、十万に満たない場合は三歳に一人とします。」
和帝はこれに従いました。
この上書がいつされたかは明記されていませんが、劉方が司空を勤めたのは和帝永元四年(92年)十月から永元六年(94年)二月までなので、上書もこの間に行われたはずです。尚、丁鴻は永元六年(94年)に死にました。
本年(永元十三年・101年)、和帝は辺境の孝廉の数を増やしました。人口十万以上の郡は毎年一人、十万に満たない郡は二年に一人、五万以下は三年に一人にします。
鮮卑が右北平を侵して更に漁陽に侵入しましたが、漁陽太守が撃破しました。
戊辰(二十六日)、司徒・呂蓋が老病によって致仕(隠退)しました。
十二月丁丑、光禄勛・魯恭が司徒になりました。
郡による税の徴収が不平等だったため、巫蛮・許聖が怨恨して反しました。
辛卯、許聖が南郡を侵しました。
次回に続きます。